2014年12月11日木曜日

神人合一と悟りは違う

悟りと神人合一


お久しぶりの更新です^^

今日はすごく久しぶりにメンターさんに電話をしました。

たいていメンターさんに電話する時というのは、悩んでいる時か、質問がある時だったのですが、今日はただお礼をいいたくて電話をしたかったんです。

思えば1年前の今頃は僕は欝の真只中で、ほとんど毎日メンターさんに電話をしたり、電話をもらったりしていました。

喉元過ぎれば… という言葉がありますが、すっかり元気になった今は、あの頃のことが遠い過去のことのようで、あの時ずっとぐじぐじ悩んでいた悩みは完全に消えてなくなりました。

精神的にも、そして仕事も充実していて、そんな日常を送れるようになったのも、メンターさんの導かがあったればこそなので、そんなことのお礼をいいたくて久しぶりに電話をしたのですが、結果的に二時間もお話することになり、その中ですごい真実を教えてもらったので、このスゴイ真実を自分だけで独り占めするのはもったいないので、このブログにてシェアさせていただきます。

といっても、最初にお断りしておきますが、僕も今聞いたばかりの話しなので、まだしっかりと咀嚼できていません。

それに僕の理解のレベルも体験のレベルもまだそこには達していないので、上手く伝わらないかもしれません…

が! それでもシェアする価値のある話しなので、今日メンターさんに教えてもらったことを以下に書きます。

上手く伝わりますように…(^O^;)


■神人合一と悟りは違う

いろんな話しをメンターさんから聞いた中で、今日、僕がもっとも衝撃を受けたのは

神人合一と悟りは違う

全く違う

ということです。

スピ系でも仏教の世界でも、

悟りこそが究極の境地

悟りこそが人生の目的

と言われています。
(僕は仏教徒ではないので、くわしいことはわかりませんが…間違っていたらごめんなさい)

そして僕も最近はそういう気持ちは落ち着いていましたが、欝から脱出してスピ系に傾倒していた時は、

悟りたい
覚醒したい
ワンネスを感じたい
この世の真実を全てしりたい
あの世の真実も全てしりたい…

という強い欲求がありました。

ただ、いくら本を読んでも、講演会に行っても、話しを聞いて
「ああ、そうなんだな…」
とか
「なるほど、わかりやすい例えだな!」
とは思うのですが、最後のところでは完全に納得することも理解することもできませんでした。

それはなぜかというと、
自分の体験ではないからです。

死後の世界についても

輪廻転生はある!

いや、輪廻転生なんてない!

という真っ向対決の両意見がスピ系にはあるし

輪廻転生はあるといえばあるし、ないと言えばない… それは見方の問題だ…

という意見もあったりします…(^_^;)


臨死体験でありありとした世界を見てきて、霊界を描写する人もいれば

死後は元のワンネス… 光の中に帰っていくだけ…

という話しもあります。

霊界にも段階があって、そのどちらも真実! という話しもあります。


僕は覚者ではないし、ワンネス体験もないし、臨死体験もしたことありません…

なので、本当のところは僕にはわかりません(過去に偉そうに霊界について書いた記事もありましたが…)。

ただ、最近は、そういうのがどうでもよくなってきていました。

死後の世界なんて、わからないものはわからないし、死ぬまでそんなことは誰にもわかりません。

そんなわからないことを真実はどうなんだろう????? と、それを追求し、それにパワーをさくよりも、今日という一日、今という瞬間を大切に感謝して生きていくほうがいいんじゃないかな… なんて思って、日々のほほんと生きていました。

いまここに生きることが大事なのは真実だと思います。

今、光に向かって歩いている人は、きっと死後もそのまま光に向かってあるいていくと思います。

今、心が天国にある人は、死後もそのまま天国に行くとおもいます。

もうそれでいいんじゃないかと思います。

死ねばだれでもわかります(〝死〟なんてものはない! という意見もありますが…)。


なんだかメンターさんの話しに中々入れませんが、
〝悟り〟ということについても、
僕の中で一つのひっかかりがありました。

それは

悟っても何も変わらない

という教えです。

いろんな本で下記の言葉をよく目にします。

悟る前は、薪を割り水を運ぶ。
      悟っても、薪を割り水を運ぶ。

また、悟ったからといって、全ての問題がなくなるわけではない…
トラブルもアクシデントも起るものは起る、ただその捉え方が変わるので、問題が問題ではなくなるという風には言える…

そんな教えもよく目にしました。

まあ、わかります。

そうだろうな… という気もします。

この世はある意味修行の場でもあるし、悟ったからといって、不死身になるわけではありません。

津留晃一さんにしても、若くして亡くなりました。

覚者であっても、自分の配偶者や家族を亡くすこともあります。

悟り前であっても、悟り後であっても
起ることは起る

それはそうなんだろうなと思います。

でも、心のどこかに違和感がありました。

悟っても何も変わらないの…?

人間ってそんなものなの…?

この世の創造主である神は無限絶対無始無終の存在です。

そして宇宙の存在全てが神の断片であり、神そのものであるように、人もまた神そのものです。

神ってもっとパワフルなのに、悟っても何もかわらない… 

というのはちょっと物足りないというか、神である人の存在を軽くみているような気がしていました。

悟りというメジャーな言葉に対して

神人合一

というマイナーな言葉があります。

この言葉を提唱したのは、出口王仁三郎さんです。

僕は出口王仁三郎さんの本は83巻もある「霊界物語」をはじめ、その他の本もほとんど読んできました。

なので、この神人合一という言葉ももちろん知っていましたが、欝脱出後、スピ系に目覚めた僕は、悟りこそ目指すべきもの… と思い、この言葉の存在を忘れた状態になっていました。

ですが、今日、メンターさんと話しをしていると、

悟りと神人合一は全く別物!

ということをかなり懇切ていねいに教えてくれました。

以下の記述は、僕の速記を元に説明しているので、メンターさんの話しをゆがめて閉まっている可能性がありますが…

悟り、というのはあくまで人間が宇宙の真理に目覚めた状態。
正覚者ということだそうです。

宇宙の真理に目覚めているので素晴らしい状態であることは確かです。

大聖人であり、大偉人です。

でも、悟りの奧にはさらなる次元があるのです。

それが

神人合一です。

神と人が完全に一体となった状態です。

この神人合一の状態になると、全てのことが変わります。

悟っても悟らなくても起る現象は変わらない… ではなく、
起こる全ての現象が変わります。

もちろん全てが良い方向に変わります。


このメンターさんから教えてもらった内容は、僕のお腹にストンと落ちました。

目指すべきゴールが見えました。

ちなみに、メンターさん自身はそんなことは全く言っていませんが、僕が話しを聞く限りでは、すでに神人合一しています。(^o^;)
24時間、神とともに生きています。なので、本当に嬉しいこと、ありがたいことしか起きていません。



ちょっと僕の言葉足らずですが、とにかく僕が云いたかったこと、シェアしたかったことというのは

悟りを超えた世界がある。

もっとスゴイ神人合一という境地がある。

ということです。




僕は長年、神人合一というのは出口王仁三郎さんとか、イエスさんとか、そういうレベルの人の話しで、僕のような一般人には到底かなわない世界というふうに思っていました。

誤解、思い込み、メンタルブロック、洗脳です…

人は神になれる! いや人こそ神である!

これはきっと究極の真実ですが、世界中のどの宗教でも、この真実については触れません。

だって、そうなったら礼拝堂もお守りも牧師も宗教組織も必要なくなってしまいますからね…

宗教の根底には素晴らしい真実が含まれていますが、組織である以上は、組織の維持拡大はどうしても避けられません。

なので、人は神である。

だれでも神人合一できる。

神人合一こそが人生の目的である。

神人合一してからが本当の人生である。

という事実を公開することはできません。

あるいは、その事実を知らない宗教も多いだろうし、本当にその事実を忘れてしまっている組織も多いとおもいます。

どうして人は自分が神であることを
忘れてしまったのだろう…

なんてことを考えてみる。

たぶん、もっとずっとずっとむかしは、宗教もなくて、何の教えもなくても、人は神として生き、神とともに自然に生きていたと思う。

文明の発達、自然の破壊、都市の発達、貨幣の誕生、エゴの拡大…

いろんな段階を経るごとに、僕たちは、自分が神であることを忘れてしまった。

そして、宗教の誕生は、それを開いた神人・聖者との思いとは裏腹に、神を教会や寺院の中に閉じ込めてしまった…。

神や仏とは帰依する対象、拝む対象、すがる対象になってしまった…

それはすなわち、自分を無力化するということだ(本当は神である自分なのに)。

弱い人間、苦しみを持つ人間… だから祈り、だからおがむ…

そういう世界観で生きる人にとっては、自分が神である。という事実は受け入れられないだろう。

そして、神人合一するなんて、恐れ多いとも思うだろう。

でも、神さまはそれを望むだろうか?

人間は弱い存在だ、だから神である私を頼り、私にひれ伏し拝みなさい…

なんてもことを神ご自身が思うだろうか?

そんな神がいるなら、それは神ではなく悪魔だ。

神とは愛そのものである。

神とは光と熱そのものである。

僕たちは神から生まれ、また神へと帰っていく。

この現実界に生まれてから、今この瞬間まで神と離れた瞬間なんて一瞬もなかった。

ただ、僕たちは神を否定したり
神に背を向けたり
神を恐れたり
しただけだ。

エゴとは分離感である。

私は私
あなたはあなた
私とあなたは違う

私は私
神は神
私と神は違う

これが全ての問題、全ての不幸のはじまりだ。



生まれる前は僕らは神(大いなる命でもソースでもいい)という海から生まれた。

この世では海水(命・魂)の入れ物が必要なので、僕たちはコップという肉体に入った。

そして一つひとつ大きさや色や形が違うコップは
(人種や宗教や正確や容姿が違う人間は)
神という海の上で波に漂っている…

そして僕たちは、その他のコップ(他人)より勝らんとし、

俺のコップのほうが硬くて強い! と他人を蹴散らし
(いい大学、いい会社にいって勝ち組になる)

私のコップのほうがキレイよ! と、コップを磨くことに命をかける
(ブランド・ファッション・メイク・美容整形!)

イエーイ! お前のは銀のコップ! 俺のは金のコップと自尊心を満たす
(お金持ちになることこそが人生の成功だ〜〜〜!)


また、コップは揺れる波の上で、他のコップとぶつかりあったりする
(ケンカ・人間関係のトラブル)

時には何度も同じコップとぶつかりあったりもする
(逆縁・くされ縁・永遠のライバル?)

また、たいていのコップは惹かれ合ってペアになって海を漂ったりする
(結婚)

そして「やっぱりこのコップは嫌!」と離れてしまうこともある…
(…離婚)


また、白いコップ同士で固まって、黒いコップの固まりを見て
「黒のコップはダサイ! 白のコップのほうがかっこいい!」
といったりする。
(人種差別)

ある大きなコップの集団が別の集団のコップを攻撃している
「十字マークのコップこそが真理だ、月のマークのコップ達はケシカラン!」
(宗教戦争)

また
一つひとうのコップはこう思う

私は私!
あなたはあなた!
だって、それぞれ別のコップじゃん!

でも、容器は違っても中身は全く同じ海水です。

コップに入る前(生まれる前)は
同じ神という海水の中で一つになって融け合っていました。
僕とあなたと、そして神とも、隔てる壁なんて存在していませんでした。

そしてコップが割れた後(死んだ後)も
同じ神という海水の中で一つになって融け合います。
あなたとわたしと神を隔てるものは何もありません。

それはまさに一つの海です(ワンネス!)


悟りとか覚醒っていうのは、

「あれ! 俺たち確かにコップの形(肉体の形)は違うけど、
中に入っている海水(命・魂・ソース)は、全く同じじゃね!?」

「でもって、よく考えたら俺たちの足許に無限にあるこの海の海水も俺たちと全く同じじゃね!?」

まさに悟った人がよくいう、
「私はあなたで、私はあなたなんですよ…」
「この宇宙の真実はワンネスなんですよ…」
の世界です。

そういう覚醒に至ったコップは分離感というエゴが薄まっていきます。

コップの形や色はそれぞれ違うけど、中身の海水はあなたも私も全く同じ! 
という真実を自覚しています。

なので
人類愛や不偏愛に目覚めたりもします。

でも、依然としてコップは海の上を漂っているので、
時に荒れ狂う波に翻弄されたりします
(人生の試練やトラブル)

また、荒れる波の上で他のコップと衝突することも時にはあります
(人間関係の悩み)

でも、コップの中身は同じなんだ! という気づき、目覚めがあるので、日々起る現象、トラブルやアクシデントにも善処できるようになります。

でも、やっぱり波に翻弄されるという現実は起きます。
ただ苦悩することは少なくなります
(悟り状態)




では、神人合一とは何でしょう

神人合一とは、神と一つになることです。

コップ(肉体)が割れれば(死)、
当然のことながら、海水(神)と一つになれます。

じゃあ、死なないと神とは一つになれないのでしょうか?

違います。

神人合一とは、この現界に生きながら、神と一つになることです。

肉体を持ちながら神として生きることです。

どうすれば神人合一できるのか!?



コップが自ら海の中に潜ればいいのです。



海に潜ってもコップは割れません。

肉体をもったまま、神という海水と一つになれます。

そこは平和に満ちた静寂の世界です。

荒れ狂う波に翻弄されることはありません。

起る現象も全てが変り、本当の意味で人生から問題はなくなります。


当ブログのバックナンバー一覧
↓  ↓  ↓
このブログの全記事・バックナンバーの一覧