2014年5月14日水曜日

死ぬのが怖いあなたへ【ある高校一年生からの質問への回答】



こんにちは! あゆむです。(・∀・)

コメント欄に下記質問をいただきました。

ので、今日はその質問に僕なりに回答させてもらいます。

【以下質問】

はじめまして。 いきなりですが、死んだら先に死んだ家族や友人に会えると思いますか? 私はまだ高校一年生ですが、死ぬことがすごく怖いです。 その1番の理由が、愛している家族に会えなくなってしまうかもしれないという不安です。 私は家族を心から愛していて、死んでもずっと一緒にいたいと思っています。 そんなことは可能ですか? 科学的には証明されてない死後の世界がとても気になり、毎晩悩み苦しんでいます。 どうか回答お願いします。【匿名】

【以下、回答】

質問に答える前に僕が思ったことは、あなたはとてもステキな人だなということです。

死ぬのが怖い理由が、愛している家族に会えなくなるかもしれないから…

というぐらい、あなたは家族のことが大好きで、愛しているんですね。^^

きっとあなたの両親や兄弟もまた素敵な人たちだと思うし、あなたが家族や友人を愛しているように、あなたの家族や友人もあなたのことを愛していると思います。

さて、結論から書きます。

【死んだら先に死んだ家族や友人に会えると思いますか? 】

の回答はイエスです。

といっても、僕は死んだことがないので(今回の人生では)、この目で見てきたわけではありません。

ただ、僕もあなたと同じような悩みをずっと持っていました。

小学校低学年の頃に、父親に半泣きになりながら「死んでもいっしょにいられるの?」と質問したことがあります。

死んだらどうなるのか?

ということは、僕にとってもすごく大きなテーマで、それに関する本… つまり霊界の本や、臨死体験の本をかなりたくさん読んできました。

また、臨死体験した人から直接話を聞いたこともあります。

そういった本や人から得た知識、また僕の魂が感じていることからも

あなたの質問への回答はイエスです。


まず、大前提として、人の肉体は滅んでも、その本体である魂とか意識というものは、死ぬことがありません。

魂というと、なにか幽霊のようにフワフワとした存在のように思われますが、実際はそうではなく、死を経て、肉体から抜けだして霊体になった時には、完全なる覚醒状態になるので、肉体意識はより鋭敏になり、自由になり、「これが本当の自分だ〜!」という感覚になります。

例えば、事故や病気などで、肉体に欠損があったり、目が悪い、耳が悪い、膝が痛い… そんな症状があったとしても、霊体になれば、誰もが五体満足で、元気りんりんとなります。

また、僕たちは死ぬということは、この世での役目を終えて、僕たちが元々いた場所(それは天国とか大いなる根源とか、空とか呼ばれる場所です)に帰っていくということです。

神さまの元へ帰っていくということです。

神さまは愛と光と熱そのもので、人間を罰することはなく、どんな人であっても大きな愛でつつみこんでくれます。

そして神さまの愛というのはどこまでも用意周到です。

中には、死後の存在を信じない人や、死を極度に恐れている人たちもいます。

そういう人でも、安心して死ねるように、死ぬ時にはちゃんとお迎えがきます。

お迎えに来るのは、天使であったり、先に霊界に帰った自分の祖父母や両親や恩人・知人であったりします。

出口王仁三郎という、日本を代表する霊能者がいるのですが、王仁三郎は、この現実世界に生きながら、霊界をくまなく探検をしてきました。

その霊界の様子を王仁三郎は霊界物語という83冊の本にまとめたのですが(僕は一応全巻読んだことがあります)、その中では、人は死後、まず中有界という天国と地獄の間にある場所に行き、そこで生前親しかった家族や友人と再開するということをはっきりと書いています。

もちろん王仁三郎だけでなく、多くの臨死体験者や霊界研究科の本にも、あの世で一番会いたかった家族や友人と再会するということが書かれています。

なので、あなたも死後、家族と再会することはできます。

安心してください。(・∀・)


そして、質問の後半の部分ですが…

【私は家族を心から愛していて、死んでもずっと一緒にいたいと思っています。 そんなことは可能ですか?】

これについてはいろんな解釈のしかたがあります。

王仁三郎は、天国にはいくつかの段階があり、その段階の中にもいくつもの団体があって、そこには想念を同じくしたもの、霊的なレベルが同じものがいっしょに暮らしていると記述しています。

僕たちが生きる現界では、たとえば学校のクラスでも、気のあう仲良しもいれば、気が合わない苦手な人もいたりしますが、天国では、同じ天国の仲間は全員が超仲良しで、仲間はずれとか苦手な人はいません。

それは、霊的なレベルとか価値観とかが同じだからです。

なので、あなたがあなたの両親や兄弟、また友人たちと同じ価値観であれば、天国でも同じ団体で暮らすということも十分ありえると思います。

じゃあ、もし価値観が違っていたら、違う団体で暮らすことになるのか…

という疑問があるかもしれません。

これについては、ワンネスという観点から見れば、結局はみんな同じ場所に帰る… というふうに理解できます。

僕たちの魂は、それは全ての人間も動物も植物も鉱物もそうですが、この世に存在する全ては、同じ一つの大いなる源から生まれてきました。

そして、死後は、また元の大いなる源に帰っていくのです。

そこでは、全ての命は一つの源と一緒になります。

この世界では、私は私であり、あなたはあなた… という分離感がありますが、
あの世では、私はあなたであり、あなたは私… という風に人を隔てていた分離感はなくなります。
すべてが愛でつながっています。それがワンネスです。

そういう観点から見れば、あなたはあの世でもあなたの家族とずっと一緒にいることができます。

最後に一冊の本をあなたにおすすめします。

それは下記の本です。


この本は、僕は原書でも読んだし、日本語でも5回以上読みました。

この著者のベティーさんは、小さな子供7人と愛する夫がいたのですが、子宮摘出手術後の出血が原因で死んでしまいます。

このベティーさんはとにかく家族を何よりも愛している人だったので、あなたと同じように、死にゆくときに真っ先に残された家族はどうなるんだろう… という心配をします。

しかし、神さまによって、あるビジョンを見せられたことにより、ベティーさんは安心してあの世に行くことができました。

結果的に、ベティーさんは、あの世を色々見せてもらった後に、生き返って、そのことを本に書いたのですが、とにかく感動的な内容で、この本を読めば、誰でも死ぬのが怖くなくなると思います。

すごくいい本なのですが、絶版のため、中古しかないんですね…

つい最近ベストセラーになった、東大教授で医師の矢作さんの下記の本も、参考になると思います。


とにかく、死は終わりでもなければ、恐怖でもありません。

また、死に方にもいろいろあります。畳の上で大往生というケースは少なくなってきました。でも死ぬ理由が、どんな重い病気でも、どんなひどい事故でも、あるいは災害でも、死ぬ瞬間に苦しみとか痛みは全くありません。

そして臨死体験者の99%が「この世に生きて帰ってきたくなかった(そのまま死にたかった…)」というように、あの世は本当に素晴らしい世界のようです。

なので、僕たちは現界に生きている間は、死後のことは心配せずに、日々を安心して、そして愛をもって生きていきたいですね^^

あゆむ 拝

質問がまたあれば、いつでもどうぞ


編集後記(日記)

そういえばPTAの役員になりました…
僕はそういう関係はずっと奧さんに任せっきりだったのですが、
奧さんは前年度、PTA副会長というかなり忙しい役をやり、燃え尽きてしまいました…

前年度役員をした人は、今年度は免除というシステムがあるのですが、我が家は春に引っ越して転校したため、免除はご破算になり、また役が回ってきました。

奧さんには休んでもらって、今期は僕ががんばっていこうと思います。

務め人ではないので、時間だけはありますし…(^_^;)



おもしろい記事がいっぱいありますね^^

このランキングにも、目覚めた人のブログがいっぱいあります。
このブログの過去記事・バックナンバーはこちら

11 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

わざわざ記事を書いてくださって、本当にありがとうございます。
とても心に染み渡りました。
そして質問を重ねるようで、申し訳ないのですが、どうしてそんなに死後のことを知っていて、またそのことに対して確信があるのですか?
科学的には証明されているのかはわかりませんが、魂はあり、死後の世界はあり、またその世界は無始無終永遠の世界だとなぜ言えるのですか?
私の人生の先輩であるあなたにお聞きしたいです。
こんな質問をして、本当に申し訳ないです。

ココ さんのコメント...

私も2013年10月に 不安障害を発症しました。(一年前から兆候はありました。)41才3児の父です。 いきなり不眠になった恐怖から夜になると不安になる事があります。
あゆむさんのブログに勇気をもらい、お薦めの書籍を読み始めています。本当に感謝しています。
瞑想すると眠りにつきやすい事がわかり、本に付録であったボブさんの瞑想CDを昼休みに聞いています。夜聞く事にまだ不安があります。阿部さんの瞑想伝授も受けてみたいと思っていますが最後の踏ん切りがつきません。瞑想に対する知識が浅いせいでしょか・・・。どこか怖いのです。

普通に一日を過ごせる日も多くなってきてはいますが、あるがままでいよう。思考は観察していよう。眠る為に瞑想もかかせないな。
等々、僕のあるがままは一体 どういう事なんだろう?と考えてしまいます。

いっそ何もかもしないほうが良いのでしょうか?

とりとめのない質問でごめんなさい。
あゆむさんのご意見お聞かせください。

匿名 さんのコメント...

死後の世界は永遠なのでしょうか?
また人類は永遠に存続できるのでしょうか?

匿名 さんのコメント...


あゆむさん、いつも楽しく拝見させて頂いております。ありがとうございます。

さしでがましいかと思いましたが、ついつい老婆心がでまして・・おせっかいでごめんなさいねぇ。

高校生のかたへ。わたしは、88歳のばーばでございます。もしよろしければ、参考までに。

魂の自分で在れば、このことが当たり前に真実だとわかりますよ。

魂の自分を真我(ほんとうの自分)と言い

この世の思考に染まった偽の自分を自我(偽物の自分)と言います。

もし興味があるなら、ご自分で調べてみるといいですよ。

自我と真我についての学びから始めるといいとおもいます。

あゆむさんに「なぜ?確信があるのか?」

それは、魂の自分で、あゆむさんも生き始めたからですよ (^0_0^)

まだ、あゆむさん自身しっかり認めていないようですがね (^0_0^)

では、どうぞお二人とも、こころ和やかに、真我で在られてくださいませ。

ごきげんよう。

ばーばより(^0_0^)

匿名 さんのコメント...

賢者テラさんブログより



【 反応ではなく応答 】


イエスの言葉



 そのとき、イエスは言われた。
 父よ、彼らをお赦しください。
 
 「 彼らは、自分が何をしているのか知らないのです。 」


 ルカによる福音書 23章34節


 これは、イエスが無実の罪で十字架につけられた時に言われた言葉だとされている。



 聖書学的な話をすれば、これが本当にイエス自身の言葉だったかどうかは怪しい。
 でも、今日はそういうことはさておいて、この言葉から我々が得られる気付きについて考えてみたい。


 さて、普通無実の罪で死ぬような目に合えば、どうなるのが自然か?

 自分を殺そうとする連中を恨むだろう。許せないだろう。

 無実だから、死んでも死にきれないだろう。さぞ無念だろう。

 こうした、人間が長い歴史を経て学習して身に付けてきた思考 (感情) パターンのことを、『反応』 と呼ぶ。

 それは、もう慣れっこになっているため、努力せずとも自然にそうできる。

 物事に反応することは、実に簡単である。

 だからこの場合も、自分の運命を呪い周囲を恨むのが大方の人間の自然な 「反応」


なのだ。

 逆に言えば、それとは違う行動パターンを示すのは、かなりの努力というか、パワーの要ることである。
 
 だって、慣れたパターンからあえて外れよう、とするからである。


 
 人間は、朝から晩まで反応ばかりである。
 
 数えてみれば、うんざりするほどである。

 他者から何か気に障ることを言われて、ムキに言葉を返すのは反応。

 子どもが親にお使いを言いつけられて、面倒だなぁというのは反応。

【 とにかく、外から受け取った刺激情報に対して、自分の意思という回路を通さずに、簡単に出力してしまう行動全般を、「反応」と呼ぶ。 】
 
 人によっちゃ、一日のうちで反応以外の行動などしていないという場合もある。
 
 これでは、人として生きてなどいない。


【 反応しかできないなら、ロボットと変わりない。 】




 イエス・キリストを十字架にかけた人々 (当時の権力者層や宗教指導者層) の行動は、【 反応 】である。

 イエスの言葉の指し示すものが何か。そして、それはどのような価値をもつか?

 そういうことに考え至る以前の段階で、ハートで考えることを放棄したのだ。

 放棄した理由は、保身である。

 当時の常識や因習にしがみつき、それをイエスに壊されるのが都合の悪かった者が反応をしたのだ。 

 この不都合な存在を排除すべき、という。



 例えば、ある優秀な社員が、素晴らしい画期的な事業計画を提出してきたとする。

 でも、その上司がこの人物を個人的に嫌っていた場合。あるいは恨んでいた場合。

 その計画案が会社全体に大きな利益をもたらす、という視点には至れない。

 こいつに成功させてなるものか。こいつの案が成功するくらいなら、会社は発展しなくてもいい。

 結果、会社の利益よりも嫌いなやつの成功を阻むことが優先される。



 背に腹は代えられない、というが、こういう場合代えられる。

 感情がからめば、人は簡単に背に腹を代える。

 自分の意思とは違う所から来る、抗いがたい感情の流れこそが反応である。

 そういう意味では、感情と反応は、兄弟のような密接な関係にある。

 

 反応という行為のもつ最大の特徴は、そうすることが簡単であることにある。

 苦もなく、選択できる部分にある。

 自然な流れに任せたら、十中八九やってしまうであろう行動のことである。




 話を、イエスに戻そう。

 普通一般に多い 「反応」 ということで考えたら、イエスは無実の罪で殺される自分の運命を呪っても、なんらおかしくない。

 自分を陥れた人々を恨んでも、かえって自然である。
 
 でも、イエスがこの場面でしたのは、反応ではなかった。


 
 では、反応の反対とは何か。


 それは、意思による選択である。


 人類がこの宇宙ゲームを始めて以来、良くも悪くも様々な反応のクセを獲得してしまった。


 誰かに理不尽な目に遭わされたら、腹が立つという。


 それがひどいレベルの場合は、相手を殺してやりたいと思うような。


 相手にも、自分にされた (あるいは大事な人にされた) ひどいことと同レベルの苦痛を味わわせてやらないと気が済まない、という。

 それは、まさしく 『反応』 である。


 でも、私はその反応を悪いとは言えない。反応する人を責めることはできない。

 なぜなら、それは同情の余地があるほどに、無視できないレールなのだ。

 これを外れようとする努力は、並大抵ではない。



 でも、その並大抵でない芸当を成し遂げたのが、イエスである。

 なぜ、この十字架の事件が、歴史を通じこれほどまでに影響力をもつのか。

 それは、覚醒者イエスが人類がこの二元性ゲームを優位にすすめるための必勝法を示したからだ。

 キリストは、十字架において


 神も人も恨まなかったことを通して何を示したのか?


 人は、反応しかできない生き物ではない。

 自らの意志で、叡智によってー

 魂が最善とする行為を、あえて選択することができる。



 ネット世界やブログのコメント欄で、この文章読み辛いな、とか読んでて嫌な気持ちになるな、という文章があるとしたら、

 それはまず間違いなく反応によって書かれたものである。


 いったん受け止めて咀嚼し、本当に自分のためになるかならないかを考える余裕などない。

 弱点である 「感情ボタン」 を押されてしまったら、問答無用で言葉がほとばしり出る。

 他者を批判する時って、何かの説明しがたいエネルギーに突き動かされような感覚で、カッとした熱に浮かされているような場合が多い。


 明らかに、反応という行動の典型である。







 でもイエスは、反応しなかった。

 宇宙に起こることは最善であり、何の問題でもない。


 自分が十字架にかかるということが起こりえたなら、それは宇宙が許可した。

 
 最大の叡智である宇宙が起こしたのだから、人間的エゴや都合で価値判断しても意味がない。


 かえって、人間はある状況下で反応するばかりでなく、

 「意思によって選択する自由もあると皆に示すよい機会だととらえた。逆転の発想である。」



 イエスのこの言葉ー

 「彼らは、自分が何をしているのか知らないのです」

 これは、

 別訳では 『彼らは、自分が何をしているのか分からないでいるのです』
とも。


 分からない=受け止めて考えることをしていない=反射的行動



 高い椅子に座って両足を浮かしてブラブラした状態で、ひざ下をコンと叩くと足がビクッと跳ね上がる。

 保健体育で習ったことがあるとおもうが、この現象を膝蓋腱反射 (しつがいけんはんしゃ) と呼ぶ。

 頭で考えたり、命令などしていないのに、脳を介さず勝手に起こる反応である。



 イエスを十字架にかけた者たちは、感情の熱病に浮かされていたようなものである。


 完全に、ハートの回路がマヒしていた。

 反応のせいで、尊厳ある人間としての選択の自由を行使できなかった。

 ハートを介する余裕も与えられず、事に及んでしまったのである。



 新時代を生きる上でのヒントを、イエスは与えてくれる。


 反応とは、過去から積み上げられてきたマイナスの遺産であり、幻想に過ぎない遺物。




 私たちは、これまで考えなしに反応ばかりを選択してきた。

 でも、私たちはハートからの判断ができるのだ。やろうと思えば。



 私は、反応ではなく 『応答』 をオススメする。  
 
 
 「応答とは、」

 ある外的情報に対して無防備に反応するのではなくー
 
 応じて、答える。



 先入観なく、いったんありのままを受け止めてみる。

 その上で、結論を出した内容をもって、応える。



 これができてこそ、人として、ゲームキャラとして与えられた本来の能力を、フル活用することになる。 
 


 一時的な不安や恐怖をただ鎮めるためだけの、安っぽい防御反応ではなくー

 もっと長い目で見た、真の喜び、真の利益に繋がる選択をしよう。


 外の力によって、否応なく引き出される行動などに大した価値はない。


 自分のエゴや肉体ではなく、

 魂が喜んでいると分かる選択を自ら選び取る。

 これこそが、人間ゲームにおけるあっぱれな勝利法である。

匿名 さんのコメント...


ココさま。もしよかったらここを覗いてみてください。きっと開けると思います。「真我が目覚めるとき」

http://4649soul.blog.fc2.com/

匿名 さんのコメント...

http://ameblo.jp/eyeofgod/entry-11846315043.html

「ありのままでいいって、ほんと?」

もしよかったら、ここもどうぞ♪

あるがままでもいいし、あるがままではいかん!でもいい。これを「あるがまま」と言います。

ココ さんのコメント...

あゆむさんへ

ココです。私は全てあるがままに体験していく事に決めました。
夜眠れなければそれを体験し、考えすぎて
嫌になったら それを客観的に体験します。
そう決めたら楽でした。

あゆむさんのブログや コメントを拝見し
そう思えるようになりました。

ありがとうございます。
これからも楽しみにしています。

ココ さんのコメント...

匿名さま  ありがとうございます。「真我が目覚めるとき」 拝見しました。
やらなければ という自分の観念について、気付きました。全部は読めていませんが、ゆっくり拝見していきます。あゆむさんのブログを通じて助けて頂き 本当にありがとうございます。
言葉は上手に使えませんが、只々 感謝します。

匿名 さんのコメント...


ココさん、おめでとうございます。

良かったですねぇ。

ただただひたすら聞こえない声を聞くきもちで、

まるで「地球の回る音を聞く」かのように、

まるで「天の声」を聞くかのように

ただただ耳を澄まして在る意識の自分で在れば、

思考は出てこれません。

実は、あなたの中の「内なる神」は、あなたのお腹の中で、あなたの内臓の音を、ただただひたすら耳を澄まして聴くだけの方です。そうやってあなたを、いつもいつも守ってくれています。

自分自身=自分自神 です。

この「ただただひたすら耳を澄まして在る」

これが本当の自分です。

ココ さんのコメント...

皆様 ありがとうございます。 私の不安や恐怖に対する問いかけに たくさんの方にお答えいただき、ほんとうに感謝しています。
どんな本より強いメッセージでした。こういったコメント欄に参加するのは はじめてでしたので正直驚いています。(神様が答えてくれているのでは・・・。とすら思いました。)

自分も人に同じ事が出来ればいいなと感じました。



 


あゆむさん ありがとうございます。