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2014年12月11日木曜日

神人合一と悟りは違う

悟りと神人合一


お久しぶりの更新です^^

今日はすごく久しぶりにメンターさんに電話をしました。

たいていメンターさんに電話する時というのは、悩んでいる時か、質問がある時だったのですが、今日はただお礼をいいたくて電話をしたかったんです。

思えば1年前の今頃は僕は欝の真只中で、ほとんど毎日メンターさんに電話をしたり、電話をもらったりしていました。

喉元過ぎれば… という言葉がありますが、すっかり元気になった今は、あの頃のことが遠い過去のことのようで、あの時ずっとぐじぐじ悩んでいた悩みは完全に消えてなくなりました。

精神的にも、そして仕事も充実していて、そんな日常を送れるようになったのも、メンターさんの導かがあったればこそなので、そんなことのお礼をいいたくて久しぶりに電話をしたのですが、結果的に二時間もお話することになり、その中ですごい真実を教えてもらったので、このスゴイ真実を自分だけで独り占めするのはもったいないので、このブログにてシェアさせていただきます。

といっても、最初にお断りしておきますが、僕も今聞いたばかりの話しなので、まだしっかりと咀嚼できていません。

それに僕の理解のレベルも体験のレベルもまだそこには達していないので、上手く伝わらないかもしれません…

が! それでもシェアする価値のある話しなので、今日メンターさんに教えてもらったことを以下に書きます。

上手く伝わりますように…(^O^;)


■神人合一と悟りは違う

いろんな話しをメンターさんから聞いた中で、今日、僕がもっとも衝撃を受けたのは

神人合一と悟りは違う

全く違う

ということです。

スピ系でも仏教の世界でも、

悟りこそが究極の境地

悟りこそが人生の目的

と言われています。
(僕は仏教徒ではないので、くわしいことはわかりませんが…間違っていたらごめんなさい)

そして僕も最近はそういう気持ちは落ち着いていましたが、欝から脱出してスピ系に傾倒していた時は、

悟りたい
覚醒したい
ワンネスを感じたい
この世の真実を全てしりたい
あの世の真実も全てしりたい…

という強い欲求がありました。

ただ、いくら本を読んでも、講演会に行っても、話しを聞いて
「ああ、そうなんだな…」
とか
「なるほど、わかりやすい例えだな!」
とは思うのですが、最後のところでは完全に納得することも理解することもできませんでした。

それはなぜかというと、
自分の体験ではないからです。

死後の世界についても

輪廻転生はある!

いや、輪廻転生なんてない!

という真っ向対決の両意見がスピ系にはあるし

輪廻転生はあるといえばあるし、ないと言えばない… それは見方の問題だ…

という意見もあったりします…(^_^;)


臨死体験でありありとした世界を見てきて、霊界を描写する人もいれば

死後は元のワンネス… 光の中に帰っていくだけ…

という話しもあります。

霊界にも段階があって、そのどちらも真実! という話しもあります。


僕は覚者ではないし、ワンネス体験もないし、臨死体験もしたことありません…

なので、本当のところは僕にはわかりません(過去に偉そうに霊界について書いた記事もありましたが…)。

ただ、最近は、そういうのがどうでもよくなってきていました。

死後の世界なんて、わからないものはわからないし、死ぬまでそんなことは誰にもわかりません。

そんなわからないことを真実はどうなんだろう????? と、それを追求し、それにパワーをさくよりも、今日という一日、今という瞬間を大切に感謝して生きていくほうがいいんじゃないかな… なんて思って、日々のほほんと生きていました。

いまここに生きることが大事なのは真実だと思います。

今、光に向かって歩いている人は、きっと死後もそのまま光に向かってあるいていくと思います。

今、心が天国にある人は、死後もそのまま天国に行くとおもいます。

もうそれでいいんじゃないかと思います。

死ねばだれでもわかります(〝死〟なんてものはない! という意見もありますが…)。


なんだかメンターさんの話しに中々入れませんが、
〝悟り〟ということについても、
僕の中で一つのひっかかりがありました。

それは

悟っても何も変わらない

という教えです。

いろんな本で下記の言葉をよく目にします。
↓
悟る前は、薪を割り水を運ぶ。
      悟っても、薪を割り水を運ぶ。

また、悟ったからといって、全ての問題がなくなるわけではない…
トラブルもアクシデントも起るものは起る、ただその捉え方が変わるので、問題が問題ではなくなるという風には言える…

そんな教えもよく目にしました。

まあ、わかります。

そうだろうな… という気もします。

この世はある意味修行の場でもあるし、悟ったからといって、不死身になるわけではありません。

津留晃一さんにしても、若くして亡くなりました。

覚者であっても、自分の配偶者や家族を亡くすこともあります。

悟り前であっても、悟り後であっても
起ることは起る

それはそうなんだろうなと思います。

でも、心のどこかに違和感がありました。

悟っても何も変わらないの…?

人間ってそんなものなの…?

この世の創造主である神は無限絶対無始無終の存在です。

そして宇宙の存在全てが神の断片であり、神そのものであるように、人もまた神そのものです。

神ってもっとパワフルなのに、悟っても何もかわらない… 

というのはちょっと物足りないというか、神である人の存在を軽くみているような気がしていました。

悟りというメジャーな言葉に対して

神人合一

というマイナーな言葉があります。

この言葉を提唱したのは、出口王仁三郎さんです。

僕は出口王仁三郎さんの本は83巻もある「霊界物語」をはじめ、その他の本もほとんど読んできました。

なので、この神人合一という言葉ももちろん知っていましたが、欝脱出後、スピ系に目覚めた僕は、悟りこそ目指すべきもの… と思い、この言葉の存在を忘れた状態になっていました。

ですが、今日、メンターさんと話しをしていると、

悟りと神人合一は全く別物!

ということをかなり懇切ていねいに教えてくれました。

以下の記述は、僕の速記を元に説明しているので、メンターさんの話しをゆがめて閉まっている可能性がありますが…

悟り、というのはあくまで人間が宇宙の真理に目覚めた状態。
正覚者ということだそうです。

宇宙の真理に目覚めているので素晴らしい状態であることは確かです。

大聖人であり、大偉人です。

でも、悟りの奧にはさらなる次元があるのです。

それが

神人合一です。

神と人が完全に一体となった状態です。

この神人合一の状態になると、全てのことが変わります。

悟っても悟らなくても起る現象は変わらない… ではなく、
起こる全ての現象が変わります。

もちろん全てが良い方向に変わります。


このメンターさんから教えてもらった内容は、僕のお腹にストンと落ちました。

目指すべきゴールが見えました。

ちなみに、メンターさん自身はそんなことは全く言っていませんが、僕が話しを聞く限りでは、すでに神人合一しています。(^o^;)
24時間、神とともに生きています。なので、本当に嬉しいこと、ありがたいことしか起きていません。



ちょっと僕の言葉足らずですが、とにかく僕が云いたかったこと、シェアしたかったことというのは

悟りを超えた世界がある。

もっとスゴイ神人合一という境地がある。

ということです。




僕は長年、神人合一というのは出口王仁三郎さんとか、イエスさんとか、そういうレベルの人の話しで、僕のような一般人には到底かなわない世界というふうに思っていました。

誤解、思い込み、メンタルブロック、洗脳です…

人は神になれる! いや人こそ神である!

これはきっと究極の真実ですが、世界中のどの宗教でも、この真実については触れません。

だって、そうなったら礼拝堂もお守りも牧師も宗教組織も必要なくなってしまいますからね…

宗教の根底には素晴らしい真実が含まれていますが、組織である以上は、組織の維持拡大はどうしても避けられません。

なので、人は神である。

だれでも神人合一できる。

神人合一こそが人生の目的である。

神人合一してからが本当の人生である。

という事実を公開することはできません。

あるいは、その事実を知らない宗教も多いだろうし、本当にその事実を忘れてしまっている組織も多いとおもいます。

どうして人は自分が神であることを
忘れてしまったのだろう…

なんてことを考えてみる。

たぶん、もっとずっとずっとむかしは、宗教もなくて、何の教えもなくても、人は神として生き、神とともに自然に生きていたと思う。

文明の発達、自然の破壊、都市の発達、貨幣の誕生、エゴの拡大…

いろんな段階を経るごとに、僕たちは、自分が神であることを忘れてしまった。

そして、宗教の誕生は、それを開いた神人・聖者との思いとは裏腹に、神を教会や寺院の中に閉じ込めてしまった…。

神や仏とは帰依する対象、拝む対象、すがる対象になってしまった…

それはすなわち、自分を無力化するということだ(本当は神である自分なのに)。

弱い人間、苦しみを持つ人間… だから祈り、だからおがむ…

そういう世界観で生きる人にとっては、自分が神である。という事実は受け入れられないだろう。

そして、神人合一するなんて、恐れ多いとも思うだろう。

でも、神さまはそれを望むだろうか?

人間は弱い存在だ、だから神である私を頼り、私にひれ伏し拝みなさい…

なんてもことを神ご自身が思うだろうか?

そんな神がいるなら、それは神ではなく悪魔だ。

神とは愛そのものである。

神とは光と熱そのものである。

僕たちは神から生まれ、また神へと帰っていく。

この現実界に生まれてから、今この瞬間まで神と離れた瞬間なんて一瞬もなかった。

ただ、僕たちは神を否定したり
神に背を向けたり
神を恐れたり
しただけだ。

エゴとは分離感である。

私は私
あなたはあなた
私とあなたは違う

私は私
神は神
私と神は違う

これが全ての問題、全ての不幸のはじまりだ。



生まれる前は僕らは神(大いなる命でもソースでもいい)という海から生まれた。

この世では海水(命・魂)の入れ物が必要なので、僕たちはコップという肉体に入った。

そして一つひとつ大きさや色や形が違うコップは
(人種や宗教や正確や容姿が違う人間は)
神という海の上で波に漂っている…

そして僕たちは、その他のコップ(他人)より勝らんとし、

俺のコップのほうが硬くて強い! と他人を蹴散らし
(いい大学、いい会社にいって勝ち組になる)

私のコップのほうがキレイよ! と、コップを磨くことに命をかける
(ブランド・ファッション・メイク・美容整形!)

イエーイ! お前のは銀のコップ! 俺のは金のコップと自尊心を満たす
(お金持ちになることこそが人生の成功だ〜〜〜!)


また、コップは揺れる波の上で、他のコップとぶつかりあったりする
(ケンカ・人間関係のトラブル)

時には何度も同じコップとぶつかりあったりもする
(逆縁・くされ縁・永遠のライバル?)

また、たいていのコップは惹かれ合ってペアになって海を漂ったりする
(結婚)

そして「やっぱりこのコップは嫌!」と離れてしまうこともある…
(…離婚)


また、白いコップ同士で固まって、黒いコップの固まりを見て
「黒のコップはダサイ! 白のコップのほうがかっこいい!」
といったりする。
(人種差別)

ある大きなコップの集団が別の集団のコップを攻撃している
「十字マークのコップこそが真理だ、月のマークのコップ達はケシカラン!」
(宗教戦争)

また
一つひとうのコップはこう思う

私は私!
あなたはあなた!
だって、それぞれ別のコップじゃん!

でも、容器は違っても中身は全く同じ海水です。

コップに入る前(生まれる前)は
同じ神という海水の中で一つになって融け合っていました。
僕とあなたと、そして神とも、隔てる壁なんて存在していませんでした。

そしてコップが割れた後(死んだ後)も
同じ神という海水の中で一つになって融け合います。
あなたとわたしと神を隔てるものは何もありません。

それはまさに一つの海です(ワンネス!)


悟りとか覚醒っていうのは、

「あれ! 俺たち確かにコップの形(肉体の形)は違うけど、
中に入っている海水(命・魂・ソース)は、全く同じじゃね!?」

「でもって、よく考えたら俺たちの足許に無限にあるこの海の海水も俺たちと全く同じじゃね!?」

まさに悟った人がよくいう、
「私はあなたで、私はあなたなんですよ…」
「この宇宙の真実はワンネスなんですよ…」
の世界です。

そういう覚醒に至ったコップは分離感というエゴが薄まっていきます。

コップの形や色はそれぞれ違うけど、中身の海水はあなたも私も全く同じ! 
という真実を自覚しています。

なので
人類愛や不偏愛に目覚めたりもします。

でも、依然としてコップは海の上を漂っているので、
時に荒れ狂う波に翻弄されたりします
(人生の試練やトラブル)

また、荒れる波の上で他のコップと衝突することも時にはあります
(人間関係の悩み)

でも、コップの中身は同じなんだ! という気づき、目覚めがあるので、日々起る現象、トラブルやアクシデントにも善処できるようになります。

でも、やっぱり波に翻弄されるという現実は起きます。
ただ苦悩することは少なくなります
(悟り状態)




では、神人合一とは何でしょう

神人合一とは、神と一つになることです。

コップ(肉体)が割れれば(死)、
当然のことながら、海水(神)と一つになれます。

じゃあ、死なないと神とは一つになれないのでしょうか?

違います。

神人合一とは、この現界に生きながら、神と一つになることです。

肉体を持ちながら神として生きることです。

どうすれば神人合一できるのか!?



コップが自ら海の中に潜ればいいのです。



海に潜ってもコップは割れません。

肉体をもったまま、神という海水と一つになれます。

そこは平和に満ちた静寂の世界です。

荒れ狂う波に翻弄されることはありません。

起る現象も全てが変り、本当の意味で人生から問題はなくなります。


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2014年9月9日火曜日

宗教から離れて僕がどうなったかについて… ニューアースを読んでーその4

カブトムシ、宗教とは関係ない


久しぶりの更新になります…

前回の更新が8月16日だったので、3週間以上振りの更新です…(^_^;)

3週間も何をやっていたのか…!? については、編集後記で書きます。

あと、この間にコメントをたくさんいただいてました。

コメントに対する回答も、本記事の下に順次書いていきますね。

(※今日の記事は宗教に深くコミットしている人は不快に感じる可能性があることをあらかじめお断りしておきます)


■宗教を離れて感じていること


ニューアースの中で宗教について書かれている文章があり、すごく腑に落ちました。

その文章は後程紹介しますので、まずは、僕の宗教に関する背景を簡単に紹介します。


前にもサラッと書いたことがありましたが、僕は生まれた時から信仰のある家庭に生まれ育って、一般企業に務めた後に、ひょんなことから宗教組織の中で職員として働いていました。

大学を出て、社会人を三年して、その後、音楽の専門学校で一年を過ごして、25歳の時に、子供の頃から信仰していた神道系の宗教の世界に飛び込みました。

最初の三年間は、全寮制の学校のようなところで教義のほか、農業とか、日本の伝統文化をみっちり学びました。

茶道、武道、能楽、等々…

そして、三年の研修期間を経て、職員(僕らは奉仕者といってましたが)として宗教組織の中で働きはじめました。

仕事は楽しく、悩んでいる人の相談にのったり、いろんな情報を機関紙やWEBで発信したり、人前で講話をしたり… 毎日が充実していました。

なので、僕としては、一生死ぬまで、そこで奉仕者として生きるのだろうな… と思っていました。

そんな僕でしたが、昨年の秋に欝になり、今年の2月にその宗教組織から退職しました。

この決断は、今までの人生で最も悩んだ、苦しい決断でした。


欝病って、一歩間違えると自殺につながったりするような病気です。

なので、ブラック企業とか、理不尽な上司がいるような職場であれば、自分を守るためにも退職する… というのは僕は間違った選択ではないと思っています。

ただ、僕の場合は、一般企業を退職するのとはまた感覚が大きく違って、宗教組織から退職することは、まるで、それまで信じていた

神様を捨てる

ような、後ろめたさというか恐怖感がありました。

ずっと神さまを信じてきて生きてきました。そして、信じていた宗教の教えが僕の価値観とか世界を見るときのモノサシになっていました。

そこから離れるということは、とてつもなく間違ったことなんじゃないか…

離れてしまった後、激しく後悔するんじゃないか…

という恐怖がありました。

ただ、そんな時に僕はこうも思っていました。

神さまってのは、そんなセコい存在じゃない。

僕が信じる神さまというのは、絶対にバチを与えたりする存在じゃありません。

神さまは、愛そのものであり、光と熱そのものであると思っています。

よく言われるのは、この世で一番神さまの愛に近いのは、

母親の我が子に対する愛

と言われますが、その愛は母親と比べようもないぐらいに強いと言われています。

僕も子を持つ父親ですが、母親(妻)の、子供への愛を見ててもわかるし、父親である僕の立場としても、吾が子への愛って本当にスゴイものがあります。

まさに無償の愛というか、この子が成功しても、失敗しても、その愛は変わらないし、

この子の人生に何があっても、僕は全力でサポートしたいと思っています。

で、神さまもきっと同じで、それがもっと大きい愛なんだと思います。

つまり、僕が宗教団体の職員を辞めても、続けても、その愛は変わらないし、

欝病であっても、リア充であっても、その愛は変わらないと信じています。


■宗教を抜けてどうなったのか…


結果、宗教の職員を2014年の2月に辞めて、半年以上が過ぎました…

正直に言うと、辞めた直後には、何度か世界が崩れたような気がして、不安になったり、後悔しそうになった時もありました。

が、そういう思いは日々の中で薄れていき、まあ変わらず元気に生きています。

その過程で自分の中では大きな変化があって、

それは、今までは神さまというのは、拝む存在であり、神は僕の中というよりも、外にありました。

でも、今は、僕の中の神というものをより感じるようになりました。

これはけっこう大きな違いで、神さまを信仰し、拝む対象にしてしまうということは、ともすれば、自分の中の神を忘れて、自分を無力化してしまいます。

この部分が、僕は宗教の持つ、最大の弱点だと思っています。

僕たちは、神そのもので愛そのもである。

その事実がわかり、その思いで生きていくことができれば、僕たちはもっとパワフルに、そして穏やかに生きることができます。

何かの本で、読んだ話しですが

ある人が、「この数珠さえもっていれば、幸せになれるよ」と数珠をもらいました。

そして、その数珠を持ちだしてからは、いろんなことが上手くいき、「この数珠はありがたい…」と肌身離さず持ち歩くようになりました。

しかし、ある日突然、その数珠を紛失してしまいます…

すると、その人は、「あの数珠がないと大変なことになる…」と、周章狼狽して、不安で心配で仕方がなくなりました…

宗教って、そういう側面があると思います。

カルトなんかではよくありますが、「この宗教をやめたら地獄に行くぞ…」とか、そんなわけないのに、信仰していた人にとっては、強烈な刷り込みがあるので、真剣にうろたえてしまいます。

それがなくなると、恐怖とか不安を感じる、感じさせる… というのは、偽物だと思います。


■宗教のダメなところ…


僕はいわば宗教の内部で生きてきたわけで、教えを信じ、神さまに祈り、また神さまの存在を世界に拡めることを人生の目的のように考えていました。

ただ、これは僕もそうだったけど、宗教って、信仰心が強すぎると、どうしても独善的になりがちです。

多くの宗教が地上天国の実現を説くけど、その天国をもたらすのは、自分が信仰している神さまであったり、教祖を中心におきがちです。

また、宗教的信仰心が強すぎると、信仰している自分たちは清く、信仰を持たない世界は汚れている…的な思考になり、信仰を持たない人や世間は我良しで、金とエゴにまみれている… と世の中を断罪したりします。

でも、世の中を批判するという、その思考そのものがエゴであるし、信仰を持つ自分たちは清らかである…というような宗教的エゴは、世の中のエゴよりももっともっと強烈に強かったり、たちが悪かったりします。

あとは、教えで人を斬る…

要するに、あの人はまだ信仰心が足りない…
とか、怪我をしたのは、信心が足りないからだ…

みたいなことが宗教内部ではありがちです。

あとは、今はどの宗教も信徒数が減っているので(キリスト教のような世界宗教ですら日曜の礼拝はかなり減っているそうです。何かの新聞記事で読んだ…)、宗教にも余裕がなくなってきて、地上天国建設という当初のミッションよりも、信徒数の拡大(減少を食い止める)とか布施や献金をなんとか確保する… 方向に頭が向きがちです。

そういう負の面が宗教には確かにあると思います。


■それでも宗教がもっている価値


僕は今までの人生40年間、ずっと宗教に深くコミットしてきました。

なので、宗教こそが世界に問題を作っている…
とか
宗教はうさんくさい…

といった、論調を見ると、それに対して、「いやいや宗教こそ、人が幸せに生きるためには、最も大事なことじゃないか… 」と反発する気持をもっていました。

でも、宗教の中から外に飛び出したことで、様々なマインドブロックがとれて、様々なことをニュートラルに捉えることができるようになりました。

宗教についても、様々な問題点はあるにせよ、その根底には宇宙の真理があるものも多いし、現実問題として、宗教によって救われている人もたくさんいるし、素晴らしい側面ももっていると思っています。

でも、やっぱり同時に、今の宗教は本質から外れている部分も多いんじゃないか…

そんな風に複雑に入り混じった気持で宗教を見ていたのですが、エックハルト・トールさんの「ニューアース」の中に宗教について書いている文章があって、ああ、本当にそうだな… と思った部分があったので、下記に引用します。


■エックハルト・トールが説く、宗教


(前略)
こうして、宗教は人々をまとめるよりもむしろ分断する力となってきた。 
生きとし生けるものはひとつであるという認識を通じて暴力や憎悪に終止符を打たせるのではなく、もっと激しい暴力や憎悪を引き起こし、人間同士を、異なる宗教を、さらには同じ宗教の内部までを分裂させたのである。 
宗教はイデオロギーになり、人々が自分を同一化させ、間違った自我意識を強化しようと試みる信念体系になった。 
人々はこの信念をよりどころに自分が「正しく」て相手が「間違っている」と断じ、敵を、「他者」「異端」「間違った思考の持ち主」と呼んだ。 
それによって自分のアイデンティティを確立しようとし、対立者の殺害すらもたびたび正当化した。 
人間は自分の姿を象って「神」をつくった。永遠、無限、名づけようのない真実は、「私の神」「私たちの神」として信じ崇拝すべき偶像に堕落した。

だがーー宗教の名ではびこってきたこのような狂気の行動にもかかわらず、ーーそれでもなおーー核心部分では各宗教が指し示した真実が依然として輝いている。どれほどかそけき光であろうとも、何層もの歪曲や誤解を貫いていまも輝き続けている。ただし人は自らのなかにその真実の片鱗を垣間見ない限り、その光を認識できない。 
「ニューアース」第1章の“新しい意識” 23ページより


どうですか、この文章!

僕としては、この文章を読んで、すごく腑に落ちたというか、自分の中での宗教の捉え方に関するもやもやが全て解決しました。

宗教は、それを開いたパイオニア(イエスやブッダなど)には確かな天啓があり、素晴らしい教えを説いているけれども、時がたち、組織化されていくうちに、教えは歪曲され、組織にとって都合のよい部分だけを持ちだして、組織の存続それ自体が目的になってしまったり、排他的になって、争いを起こしたり、信徒も宗教的なエゴにまみれてしまいます。

が、それでもやっぱり、その根本には真実が依然として輝いている

ということなんですね。

アドヴァイタ系や悟り系では、宗教を否定するような意見が多いですが、このエックハルト・トールさんの、宗教のマイナス面をしっかり指摘しつつも、それでも宗教には輝く真実が厳然としてある。

という意見は、非常にバランスがとれた見方だと思います。

そして、最大に注目すべき点は、最後の一文です。
↓
ただし人は自らのなかにその真実の片鱗を垣間見ない限り、その光を認識できない。

これは、つまりどれだけ宗教を信じ、その教えが真実であっても、自分の中に神を見出さない限りは、光を認識できない。真実へと到達できない… ということです。

神を拝む対象とのみ考え、自分が神であることを信じることができなければ、いくら宗教に属し、信仰していても本当の救いはない、ということだと思います。


■それで最終的な、僕の宗教に関する結論


宗教それ自体は、善でもあり、時に悪にもなります。

僕の場合でいうと、生まれてから信仰のある家庭に育ったことで、神さまをずっと信じてきたこともあり、大きく道を踏み外すこともなく、また出来るだけ人には親切でありたい、という風に生きてきました。

しかし、同時に、信仰する神さまや教えにとらわれていた側面もあります。

僕は、宗教教団の職員は辞めましたが、信徒の籍まで抜いたわけではなく、立場としては信徒のままです。

その宗教の教えには素晴らしいものがいっぱいあるし、今でも時々、神書とよばれる経典を読み返したりもします。

すると、不思議なことに、内部で働いていた時とは、全く入ってくる内容が変わっているのです。

神道なので、“悟り”という方面については、ほとんど言及されていなかったと思っていたのですが、今、読みなおしてみると、悟りについてもたくさん書かれていることを発見し、驚いています。

アドヴァイタ系の本の内容との矛盾点もなく、やっぱり真実は一つというか、枝葉の違いはあっても、根っこはみんな同じだなと改めて思いました。

宗教から少し距離を置いて、最初は不安もありましたが、今はそういう感覚はなくなりました。



欝になり、悟りに救いを求めて(全ての苦悩から解放されるには究極的には悟りしかない)、多くの本を読みました。

信仰を元々もっていたので、神さまは信じていたし、霊界に関する知識もありました。また人生の目的ということについても常に考えていました。

なので、宗教的なバックボーンがあったおかげで、完全な無神論者という立場に比べたら、悟りとかアドヴァイタ系の教えが入ってきやすかった面があります。

でも、同時に宗教の教えが強く染み付いていすぎたために、「これはないやろ〜」みたいな、今までの信仰観と異なっている部分には、どうしても抵抗を感じてしまったりもしました。

でも、いずれにしても、僕は信仰をもって生まれたことに感謝しているし、そういう40年があったればこその現在だと思っています。

そんな宗教から少し離れての最大の変化はやはり…

以前は、神さまは自分の外にだけいましたが、今は、自分の中にも、外側にも神さまがいます。

なので、今は以前よりも、もっと心強く感じています。



■新コーナー〘質疑応答〙


コメントを通じて、質問やメッセージをたくさんいただいてたので、今日から少しずつ返答していきます。


☆すごい本見つけました! そして復活しました(*^_^*)
 へのnaotoさんからのコメント

いつも拝読しています。 メンターさん素晴らしいです。 いつもいいタイミングで、あゆむさんが魔境に入るのを防いでくれていますね。うらやましいかぎりです。 自分も、あゆむさんのメンターさんと是非お話ししたいです。

〘返信〙
はい、本当に素晴らしいメンターさんです。いつでも最適なタイミングで電話をかけてきてくれます。
メンターさん自身はもう完全に真我の世界に入った人で、僕のことも自由に泳がせながらも、変な方向に行きそうな時に、優しく軌道修正してくれる人です。
また、偽物メンターの場合は、自分への忠誠とか帰依を求めがちですが、メンターさんの場合は、そういう面が全くないのも清々しいところです。
人ではなく、自分の中の真我、あなたの中の神につながることが一番大事と教えてくれる人です。
僕だけではなく、本当に多くの人を救ってきた人で、一時期は、対外的な講演活動も全国で行っていましたが、現在は表舞台には一切出ずに、それでも多くの人を完全に無償でサポートしています。

僕のほうから、勝手に紹介とかはできませんが、きっとご縁があれば、どこかのタイミングでnaotoさんも出会われると思います。

あゆむ 拝


■編集後記


3週間も更新せずに、何をやっていたのかというと、激しく締め切りに追われながら仕事をしてました…(^_^;)

久しぶりの徹夜も何度もしました。

現在フリーランスという立場ですが、大きく看板を掲げて仕事はまだしてなくて、準備中みたいな感じなのですが、人づてでの仕事の依頼がちょいちょいと入ってきていて、今回はたまたま作業量の多い仕事が入ってきたという感じです。

受けている仕事は

WEB制作と広告作成、その他なんでも屋です。(*^_^*)


仕事に追われながらも、このブログのことは気になっていたんだけど、なかなか手が周りませんでした。

その間には、「更新まってます」のようなコメントもいただき、ありがたくも申し訳なく思っていました。

数日前に、仕事も山場を越えて、更新しようと、記事を書いたのですが、久しぶりすぎて、力が入ってしまい、久々だしいいこと書かなきゃな… みたいなエゴが出てきて、煮詰まって、結局ボツにしてしまいました。

今日の宗教の話しも、なんだか固いな… と思いながらも、まあいいや! という感じですが、公開させていただきます。

でも、宗教離れは加速していくと思うし、同じような壁にぶつかっている人もいるかもしれないし、これからぶつかる人もいると思うので、そういう人の何かの役に立てば… という思いで書きました。

僕の結論としては、宗教を信仰するのも素晴らしいことだし(エゴがなければ)、宗教を離れてもそれも全然OKということです。

大切なのは、宇宙に遍満する神と自分の中の神を信じることです。

そして、エゴの罠を見破り、真我の自分であることです。

それがあれば、信仰の有り、無しは、全く問題ではありません。



大きな仕事を終えて、また時間の余裕もできると思うので、また以前のように、コンスタントに更新していこうと思います。

今日も、長文を読んでくれてありがとうございました。

あなたのことが大好きです。(^o^)丿

あゆむ 拝
(・∀・)

PS ニューアースは、まだまだ読みどころ満載なので、心に残った文章を当ブログにて、続けて紹介していきますね。



■
おすすめの本

必読です。(^o^)丿
↓

エックハルト・トール先生のデビュー作はこっち
↓


★更新してなかったので、順位がガタ落ちしてました…(*_*;
 ↓

★こっちのランキングも…_| ̄|○
 ↓
※これより以前の記事は下記リンクから読めます。


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