2019年3月4日月曜日

一夜明けて…

昨夜はとんでもない出来事が勃発して、僕はストーリーに巻き込まれて、エゴがざわざわと騒いで苦しくなりました。

でも、そんな時こそ…

と、一人静かに瞑想をすることで窮地を脱出することができました。

あれだけざわついていた心なのに、その後は、自分でもびっくりするぐらいに、心は静まっていました。

いつも以上に心は静まっていたぐらいです。

そして、夜も12時を過ぎてましたが、時間を決めずに瞑想を再びしました。

いつもはタイマーを30分にセットして瞑想をはじめるのですが、昨夜はそれもせずに、ただただ瞑想に流れを任せようと…

時間にして1時間以上は瞑想していたと思います。

かなり強烈な光に包まれました。

僕は瞑想に、奇跡とか不思議体験を求めているわけではありません。

確かに瞑想をしていると、時折、光に包まれたり、身体感覚が完全に消えたり、何らかのビジョンを見せられることがあります。

いわゆる不思議体験です。

それが起きた時は、確かにものすごく気持ちがよかったり、救われたような気持ちになったりもします。

何より、深い瞑想状態にならないと、そういう現象は起きないので、深い瞑想が出来た…
それだけで、ものすごく心地いいし、終わったあとはものすごくスッキリしているのです。

でも、瞑想に奇跡とか不思議体験を求めるのは違うと僕は思っています。

たしかにそういうことが起きることもあるんだけど、それを求めることは違うと思っているし、瞑想教師の方や、あるいは覚者の本等で、瞑想に奇跡を求めるのは違う…
という話も聞いたことがあります。

なので、ただ心静かに瞑想する。
瞑想が向こうからやってくることを信じて、日々瞑想しているわけですが、昨日の深夜の瞑想は、自分の思いを超えてものすごく深い瞑想状態に入ってしまいました。

まさに、瞑想が向こうからやってきた状態です。

瞑想をはじめてたぶん30分を過ぎたぐらいから、ずっと目を閉じているのに、ものすごい光が次々と眼前にあらわれてきます。

とても眩してくて、真っ白な光がずっと瞬いているのですが、決して目が痛い眩しさではなく、目には優しいけど、強烈な光量でした。

瞑想を終えたあとにも、余韻が残っていて、いつも以上にぐっすりと熟睡できることができました。

そして朝もスッキリと6時前には起きることができました。

産土神社への7日参りも今日で6日目です。

今朝ははじめて、妻とではなく一人で村山神社に参拝しました。

本当は妻と行きたかったんだけど、昨日参拝していた時に

「一緒だとペースが乱れるから明日は別々でお参りしよう」

と言われたからです…
(^_^;)


すこし寂しくもありましたが、小雨の中、一人で参拝してみると、なるほど確かに心静かにお参りをさせていただくことができました。

いつもは、本殿では「天津祝詞」を奏上して、その他の6つのお社では、御神号のみ奉唱していたのですが、今日は一人だったのでそれぞれのお社で天津祝詞を奏上させていただくことができました。

とてもすがすがしい参拝でした。

昨日の夜はかなり心乱れる出来事があったのですが、今の心はとても落ち着いていて、大きな安心感があります。

瞑想と参拝

やっぱり大きな力があると思います。

何かを求めてやっているわけではありませんが、それ以上の大きな力をいただいている実感があります。

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