2025年12月1日月曜日

兄弟の罪のなさを選ぶとき、心は静けさを思い出す。ACIM Lesson 335

ACIM(奇跡のコース)今日のレッスン

Lesson 335
“I choose to see my brother’s sinlessness.”
「私は、兄弟の“罪のなさ”を見ることを選びます。」

赦しは、気分でも偶然でもなく、「選択」だと、コースは言います。

誰かのことを「嫌な人」「怖い人」「攻撃してくる人」と見るとき、
私たちは外側の“事実”に反応しているように見えて、
本当は、自分の心が選び取った“見方”に反応しているだけなのだと。

コースは、こう言います。

「私は決して兄弟をありのままに見ることはない。
 それは知覚をはるかに超えているからだ。」

私が相手の中に見るものは、
その人の「真の姿」ではなく、
「私が真実であってほしいと望んだイメージ」です。

たとえば、
・いつも怒っている上司
・わかってくれない家族
・理不尽なクレームをするお客さん

私たちは、その人そのものではなく、
自分の中の「怖れ」や「被害者意識」や「恨み」を
その人の上に投影して見ています。

レッスンはこう言います。

「私は、自分が見たいと望むものを見るように選ぶ。
 そして私はそれを見る。それだけを見る。」

この一文は、とても静かで、そして、とても鋭い言葉です。

私たちはいつも、
「外側の出来事がこうだから、私はこう感じる」と思っていますが、
コースは、ゆっくり首を横に振りながら、
「違うんだよ」と耳元でささやいてきます。

「あなたは外側ではなく、
 あなた自身の“解釈”に反応しているだけなんだよ。」

では、「兄弟の罪のなさを見る」とはどういうことでしょうか。

それは、その人の行動を正当化したり、
自分を犠牲にして笑って許す、ということではありません。

そうではなくて、

「この人の本質(スピリット)は、
 私と同じように、もともと傷ついておらず、
 罪もなく、愛そのものとして創られている。」

その視点に、心をそっと戻していく選択です。

表面的には、きつい言葉を使ってくるかもしれない。
怖い態度で近づいてくるかもしれない。
理不尽な要求をしてくるかもしれない。

それでも、
「この人のいちばん深いところには、
 私と同じ“光”がある」という見方に立ち返ること。

それが「兄弟の罪のなさを見る」ということです。

レッスンは、さらにこう続きます。

「兄弟の罪のなさは、
 私が自分自身の罪のなさを見たいのだということを示している。」

私たちが他者の中に見るものは、
実は、そのまま「自分への見方」でもあります。

誰かの中に罪や欠点ばかりを見ているとき、
自分の中にも、同じように
「ダメな私」「価値のない私」「攻撃されるべき私」
というイメージを握りしめています。

そして、誰かの中に
「本当はこの人も、怖れからこうしているだけなんだな」
「本質は責められるべき存在ではなく、愛そのものなんだな」
と見られたとき、
その瞬間、少しだけ、自分自身への視線も変わります。

「もしかして、私も、
 そんなに責められる必要はなかったのかもしれない。」

レッスンは、最後にこう言います。

「兄弟の聖性は、彼が私とひとつとして、
 私と同じように創造された存在だと私に思い出させる。
 彼の中に私は真の自己を見出し、
 その子の中に私は神を思い出す。」

私たちのエゴは、いつも分離を見ています。
「私はここ、あの人はあっち。」
「私は被害者で、あの人は加害者。」

でも、深いところでは、
私たちはみな、同じひとつの命から生まれてきました。

兄弟の罪のなさを見るとき、
私たちは、本当はみんな
同じ“故郷”からやってきた旅人なのだと
静かに思い出します。

今日、誰かの中に「罪」を見そうになったら、
そっと心の中でこうつぶやいてみてもいいかもしれません。

「私は、あなたの本当の姿を見たい。
 エゴの仮面ではなく、
 愛として創られた、あなたと私の“本質”を。」

その小さな選択が、
自分の心を少しずつ、静けさのほうへと戻してくれます。

世界を変えようとするのではなく、
“見え方”のほうを、優しく選び直す。

それが、今日のレッスン
「I choose to see my brother’s sinlessness.
 私は、兄弟の“罪のなさ”を見ることを選びます。」
の招いている旅です。

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編集後記
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このレッスンを書きながら、
「怖い存在」に見えてしまう人たちの顔が、
何人か頭に浮かびました。

彼らのことを“危険物”のように扱っているとき、
心の奥では、同じくらい強く、
「自分自身も危険だ」と信じているのかもしれません。

兄弟の罪のなさを見る、という選択は、
自分の罪のなさを少しずつ受け入れていく、
とても静かなセルフヒーリングでもあります。

うまくできない日があっても大丈夫です。
ただ、「あ、今私は“罪ありバージョン”で見てたな」と気づけたら、
それだけでもう、少しだけ光のほうに向き直っています。

今日もここまで読んでくれて、ありがとう。
あなたの中の静かな光が、そっと、あなた自身を抱きしめますように。

あゆむ 拝

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