2025年12月5日金曜日

僕は、自分が求めたものを受け取って生きている。|奇跡のコース(ACIM)Lesson 339



朝の空気が、ほんの少しだけ澄んでいる気がした。

カーテン越しの光を眺めながら、ふと心の中に落ちてきた言葉がある。

「僕は、自分が求めたものを受け取って生きている。」

もちろん、痛みを望んだことなんてない。
苦しみや不安を求めた覚えもない。
なのに、なぜか人生のある場面では、そんな出来事ばかり選んでしまっていた時期がある。

Lesson 339 は、その“ねじれ”を静かにほどいてくれるレッスンだ。


■ 今日の一節から受け取ったもの

原文はこう語りかけてくる。

人は痛みを望まない。
でも「痛みが自分らしい」と誤解してしまうことがある。
誰も幸せを避けたくなんてない。
でも「喜びは危険だ」「失うのが怖い」と思い込んでしまうことはある。

結局のところ、
僕たちは“心の深いところで求めたもの”を受け取っている。

問題はただひとつ。
その“望み方”が、恐れと愛をごちゃ混ぜにしてしまっていることだ。

だから今日のレッスンは僕たちにこう言う。

「本当に望むもの──愛と平和と喜びだけを求めなさい。」
そのために、恐れの声ではなく“内なる声”を聞きなさい、と。


■ Ayumuのリフレクション(僕自身の気づき)

思い返せば僕は、長い間どこかでこう思っていた。
「幸せになったら、いつか奪われるんじゃないか。」
「愛されたら、そのぶん傷つくんじゃないか。」

そんな思い込みが、まるで体の奥に染みついていた。

だから、心のどこかで“恐れのほうが安全”だと勘違いしていた。
ACIMは、その幻想を静かに指差してくれる。

「違うよ。
あなたは愛のほうを選んでいい。」

今日のレッスンは、望みをリセットするタイミングのように感じた。

恐れから離れ、
「僕は愛を望みます」
と、素直に自分に許可を出す日。

そんな一日があってもいい。


■ 今日の祈り(原文をベースに)

父よ、今日はあなたの声だけを聞いて歩みます。
自分ひとりで正しさを判断しようとせず、
ただあなたが与えてくださる愛を受け取れるように。
恐れではなく、愛を求める心で一日を生きられますように。


今日のまとめ

  • 人は本当は痛みを望まないが、誤ってそれを求めてしまうことがある

  • 幸せを怖がってしまう心のクセもある

  • 僕たちは自分が“深いところで望んだもの”を受け取っている

  • だから望みを“愛”に合わせ直すことが大切

  • Lesson 339 は「本当に欲しいものを望む勇気を出そう」というレッスン


編集後記

書き終えて少しだけ深呼吸してみた。
胸の奥が、いつもよりあたたかかった。

僕たちはどうして、愛されることや幸せになることに、こんなにも遠慮深いんだろう。
もっと素直に「受け取ります」と言っていいのに、
どこかで“自分には早い”“似合わない”なんて思ってしまう。

でもね、
遠慮している間にも人生は静かに進んでいく。

だから今日くらいは、
ほんの少しだけ胸を張ってみる。

「僕は、愛を受け取る準備ができています。」

その一言だけで、一日の色が変わる。
あなたの今日が、やわらかな光に包まれますように。

今日も読んでくれてありがとう。

あゆむ 拝

2025年12月4日木曜日

今日、恐れの原因を“外”に置かない。——奇跡のコース(ACIM) Lesson 338 I am affected only by my thoughts.


 

私に影響を及ぼすものは、私の“思い”だけだ。

—— ACIM Lesson 338 — —

朝、静かな時間にこのレッスンを読んでいると、
ひとつのことが胸の奥でふわりとほどけていくのを感じた。

「外側の出来事は、僕を傷つけてはいない。」

そう書くと、まるで悟った人の言葉みたいだけれど、
ぜんぜんそんなことはない。
むしろ僕は、外側の世界に翻弄されてばかりだった。

誰かの態度に怯え、
職場の空気に緊張し、
言葉の影に勝手に傷ついたり。

そのたびに、
「外側が僕を不安にさせるんだ」
そう信じ込んでいた。

でも今日のレッスンは、とても静かな声で言う。

「あなたを怖がらせているのは、外側ではなく、
 あなたの“思い”なんだ。」

まるで、長いあいだ勘違いしていた道を
やっと指でそっと示してもらったような感覚だった。

外の世界は、僕を脅かす敵ではない。
恐れの震源地は、いつも内側の解釈にあった。
その解釈は、僕自身のものだから、
いつでも選びなおすことができる。

そう気づいた瞬間、
胸のどこかで張りつめていた糸が一本、
ふっと緩んだ。


レッスンには、こんな言葉がある。

He has no enemies.
彼には敵がいない。

これは、何かの理想論ではなく、
“心の見方が変わった時に見える世界”のことなのだと思う。

僕たちは、誰かを「敵」に見てしまうとき、
本当はその人を恐れているのではなく、
自分の中の恐れそのものを見ているのだ。

だから、誰かに怯えた朝も、
ニュースにざわつく夜も、
自分を守ろうと固くなる瞬間も。

そこで必要なのは
“世界を変えること”でも
“誰かを動かすこと”でもなく、ただひとつ。

「今、どんな思いを握りしめているのか?」

それだけを静かに見つめること。

見つめたら、そっと選び直すこと。

ACIMはそれを“赦し”と呼び、
“奇跡”が始まる場所だと言う。


今日、僕が心に留めておきたい言葉は一つだけ。

「別の見方を選びます。」

誰かを恐れそうになったら。
未来に不安が走ったら。
過去の後悔が心を曇らせたら。

そのたびに、
この一言をそっと、胸の内側に置いておこう。

恐れの思いは、僕を守ってくれない。
ただ世界を暗く見せるだけだ。

でも、愛の思いは違う。
世界を静かに照らし返し、
“安全である”という本来の感覚を思い出させてくれる。

外側の何かではなく、
僕の思いが、僕の世界をつくっている。

今日、そのことを丁寧に思い出しながら過ごしてみたい。


編集後記

今日は、この記事を書きながら何度も深呼吸をした。
というのも、僕自身、ここ最近ちょっと背中に力が入りすぎていたからだ。

「また何か起きたらどうしよう」
「うまくできなかったら困る」
「誰かに迷惑をかけないようにしないと」

そんな思いが胸の奥で静かに渦巻いていて、
気づけば体も心も固くなっていた。

でも、Lesson 338 を読み返すたびに、
その緊張がじわっと溶けていくのを感じた。

“ああ、外じゃないんだよな。
僕が怖がっている“思い”のほうなんだよな。”

それに気づくと、少し笑えてくる。
「なんだ、また同じパターンやってたな」って。

でも、その“気づき”そのものが、戻ってくる道になる。
ACIMはいつもそこで僕を救う。

もし今日、あなたの心にも小さな不安や緊張があったら、
どうか無理に追い払わなくていい。
ただ、その思いに気づいてあげて、
そっと優しく言ってみてほしい。

「別の見方を選びます。」

たったそれだけで、心は方向を変えはじめる。
今日のあなたが少しでも軽くなりますように。

今日も読んでくれてありがとう。
あゆむ 拝

2025年12月3日水曜日

無罪性という名の、静かな盾。|奇跡のコース(ACIM)Lesson 337

朝の空気がまだひんやりしているうちに、今日のレッスンを開いた。

Lesson 337 ――「僕の無罪性は、僕をあらゆる害から守ってくれる。」
その一文は、胸の奥に静かで温かい灯りをともすようだった。

“無罪性”という言葉は、どこか神学的に聞こえるけれど、今日の僕にはとても個人的な響きを持って届いた。
長いあいだ、僕は「自分には欠けているところがある」と思い込んでいた。
その思い込みが、世界を少し怖くしたり、人の言葉を強く感じさせたり、不安を呼び込んでいたのかもしれない。

でもレッスンは言う。
僕は本質的に傷つけられない存在なのだ、と。
神はすでにすべてを整えていて、僕はただ“自分の本質”を受け入れればいいのだ、と。

「I need do nothing.」
自分で何かをしなくてもいい。
この一文は、肩に入りすぎていた力をふっと抜いてくれる。
ずっと守ろうとしていた“弱い僕”は、そもそも幻想だったのかもしれない。

今日、僕がするべきことはひとつだけ。
“守られていない自分”という勘違いをそっと手放し、
“完全に愛されている自分”を静かに受け入れること。

すると、世界の輪郭が柔らかく見え始める。
人の言葉も、出来事も、未来の選択も、僕を傷つける力を持っていないと分かってくる。

心の奥に、小さな光が灯る。
その光はゆっくりとこう語りかけてくる。

「あなたは安全だ。
あなたは愛だ。」

今日は、その声に静かに耳を澄ませて過ごしたい。


編集後記

Lesson 337 は、とても優しいレッスンだった。
読んでいるうちに、胸の奥の固い部分がゆっくり溶けていくのを感じた。
世界は僕を傷つける力を持っていない――
この感覚が、今日一日の呼吸をずいぶん軽くしてくれた。

また明日も、静けさの中でレッスンを開こうと思う。


今日も読んでくれてありがとう。
あゆむ 拝

2025年12月1日月曜日

兄弟の罪のなさを選ぶとき、心は静けさを思い出す。ACIM Lesson 335

ACIM(奇跡のコース)今日のレッスン

Lesson 335
“I choose to see my brother’s sinlessness.”
「私は、兄弟の“罪のなさ”を見ることを選びます。」

赦しは、気分でも偶然でもなく、「選択」だと、コースは言います。

誰かのことを「嫌な人」「怖い人」「攻撃してくる人」と見るとき、
私たちは外側の“事実”に反応しているように見えて、
本当は、自分の心が選び取った“見方”に反応しているだけなのだと。

コースは、こう言います。

「私は決して兄弟をありのままに見ることはない。
 それは知覚をはるかに超えているからだ。」

私が相手の中に見るものは、
その人の「真の姿」ではなく、
「私が真実であってほしいと望んだイメージ」です。

たとえば、
・いつも怒っている上司
・わかってくれない家族
・理不尽なクレームをするお客さん

私たちは、その人そのものではなく、
自分の中の「怖れ」や「被害者意識」や「恨み」を
その人の上に投影して見ています。

レッスンはこう言います。

「私は、自分が見たいと望むものを見るように選ぶ。
 そして私はそれを見る。それだけを見る。」

この一文は、とても静かで、そして、とても鋭い言葉です。

私たちはいつも、
「外側の出来事がこうだから、私はこう感じる」と思っていますが、
コースは、ゆっくり首を横に振りながら、
「違うんだよ」と耳元でささやいてきます。

「あなたは外側ではなく、
 あなた自身の“解釈”に反応しているだけなんだよ。」

では、「兄弟の罪のなさを見る」とはどういうことでしょうか。

それは、その人の行動を正当化したり、
自分を犠牲にして笑って許す、ということではありません。

そうではなくて、

「この人の本質(スピリット)は、
 私と同じように、もともと傷ついておらず、
 罪もなく、愛そのものとして創られている。」

その視点に、心をそっと戻していく選択です。

表面的には、きつい言葉を使ってくるかもしれない。
怖い態度で近づいてくるかもしれない。
理不尽な要求をしてくるかもしれない。

それでも、
「この人のいちばん深いところには、
 私と同じ“光”がある」という見方に立ち返ること。

それが「兄弟の罪のなさを見る」ということです。

レッスンは、さらにこう続きます。

「兄弟の罪のなさは、
 私が自分自身の罪のなさを見たいのだということを示している。」

私たちが他者の中に見るものは、
実は、そのまま「自分への見方」でもあります。

誰かの中に罪や欠点ばかりを見ているとき、
自分の中にも、同じように
「ダメな私」「価値のない私」「攻撃されるべき私」
というイメージを握りしめています。

そして、誰かの中に
「本当はこの人も、怖れからこうしているだけなんだな」
「本質は責められるべき存在ではなく、愛そのものなんだな」
と見られたとき、
その瞬間、少しだけ、自分自身への視線も変わります。

「もしかして、私も、
 そんなに責められる必要はなかったのかもしれない。」

レッスンは、最後にこう言います。

「兄弟の聖性は、彼が私とひとつとして、
 私と同じように創造された存在だと私に思い出させる。
 彼の中に私は真の自己を見出し、
 その子の中に私は神を思い出す。」

私たちのエゴは、いつも分離を見ています。
「私はここ、あの人はあっち。」
「私は被害者で、あの人は加害者。」

でも、深いところでは、
私たちはみな、同じひとつの命から生まれてきました。

兄弟の罪のなさを見るとき、
私たちは、本当はみんな
同じ“故郷”からやってきた旅人なのだと
静かに思い出します。

今日、誰かの中に「罪」を見そうになったら、
そっと心の中でこうつぶやいてみてもいいかもしれません。

「私は、あなたの本当の姿を見たい。
 エゴの仮面ではなく、
 愛として創られた、あなたと私の“本質”を。」

その小さな選択が、
自分の心を少しずつ、静けさのほうへと戻してくれます。

世界を変えようとするのではなく、
“見え方”のほうを、優しく選び直す。

それが、今日のレッスン
「I choose to see my brother’s sinlessness.
 私は、兄弟の“罪のなさ”を見ることを選びます。」
の招いている旅です。

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編集後記
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このレッスンを書きながら、
「怖い存在」に見えてしまう人たちの顔が、
何人か頭に浮かびました。

彼らのことを“危険物”のように扱っているとき、
心の奥では、同じくらい強く、
「自分自身も危険だ」と信じているのかもしれません。

兄弟の罪のなさを見る、という選択は、
自分の罪のなさを少しずつ受け入れていく、
とても静かなセルフヒーリングでもあります。

うまくできない日があっても大丈夫です。
ただ、「あ、今私は“罪ありバージョン”で見てたな」と気づけたら、
それだけでもう、少しだけ光のほうに向き直っています。

今日もここまで読んでくれて、ありがとう。
あなたの中の静かな光が、そっと、あなた自身を抱きしめますように。

あゆむ 拝

2025年10月21日火曜日

“恐れ”から“愛”へ—聖霊が教えてくれたこと。

“恐れ”から“愛”へ——聖霊が教えてくれたこと。


朝、目が覚めたとき。
まだカーテンの隙間から光が差し込む前に、心の中でざわめきが始まる。
今日の予定、昨日の後悔、あの人への小さな苛立ち。
まるで心の中にラジオがあって、ノイズ混じりの放送を垂れ流しているみたいだ。

けれど、その奥にもう一つの声がある。
小さくて、静かで、でも確かに響いている。
奇跡のコース(A Course in Miracles)は、その声を「聖霊」と呼ぶ。

僕たちはいつか、神から離れたと信じてしまった。
けれど本当は、離れたことなど一度もない。
聖霊はその“記憶”のような存在で、僕らの心の奥で、ずっと帰り道を照らしてくれている。

「あなたは失われていない。
あなたはただ、夢を見ているだけ。」

その声は、責めることも、急かすこともない。
ただ穏やかに、愛へ戻る方向を指し示してくれる。

人を許すことって、ずっと難しいと思っていた。
でもACIMは言う。
赦しとは「相手を許すこと」ではなく、「ものの見方を愛に戻すこと」だと。

怒りの奥には、いつも“愛の呼びかけ”がある。
そのことに気づくたび、世界が少しやわらかくなる。
敵が味方に変わるわけでもないのに、心の重さがふっと消える瞬間がある。
それが、聖霊が働いているサインなのかもしれない。

夜、静かな部屋で目を閉じる。
今日もいろんな声を聞いてきた。
不安や焦り、正しさを競う声。
けれど最後に聴きたいのは、ただひとつの声だ。

「あなたは愛そのもの。
そして、いまも神の中にいる。」

その言葉が胸の奥で響くとき、
何かが静まり、あたたかな光が広がる。
聖霊は、いつも沈黙の中にいる。
そして、その沈黙こそが、僕たちが“愛へ還る旅”を歩んでいる証なのだと思う。

あとがき

聖霊は特別な人のものじゃない。
誰の心にも、同じ“静かな案内人”がいる。
怒りや不安に覆われて見えなくなることもあるけれど、
それでも声は途切れない。

今日もまた、恐れではなく、愛を選んで生きてみよう。
その選択の積み重ねが、きっと「還る」ということなんだと思う。


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2025年10月20日月曜日

香咲弥須子さんの米子のセミナーに参加しました

 めっちゃ久しぶりの投稿です。

昨日、2025年10月19日(日曜日)、鳥取県米子市の米子市公会堂で開催された香咲弥須子さんのセミナー(リトリート)に参加してきました。

オンラインや、書籍を通して、香咲弥須子さんのことは知っていましたが、生の香咲弥須子さんに合うのは、昨日がはじめてでした。

参加費18000円は決して安い金額ではありませんが(そして京都からの長い車移動!)、参加して本当に良かったです。

自分の中で本当に大きな変化がありました。

それは一言でいうと…

もうサレンダーしよう。

という確かな気持ちです。


何をサレンダーするのかというと…

単純に一言で言うと…

もう、エゴは手放そう。

ということです。


あるいは別の言い方をするのであれば…

ホリースピリットと共に生きていこう

という決意です。


昨日のセミナーから一晩明けた朝に、今このブログを書きたくなって久々にキーボードを叩いています。

昨日と今日の気づきを忘れたくないので、忘備録的に残したいなと思ったのと、きっと、途中人でエゴ、雑念まみれのこの中年おっさんの気づきはきっと誰かの役に立つかもしれない…と思ったからです。

今日から、僕は生まれ変わります!

久しぶりにACIMのテキストを開いて呼んだのですが、なんと前回僕がテキストを読んだのは、今から10ヶ月以上前の2025年1月1日でした!(ACIMを読んだ日は僕は必ずエクセルに記録してます)

道理で、生活全般がうまくいかないわけだ…(汗)

まあ、ACIMのワークは断続的にやってきたし、ぽよぽよサンガでの香咲弥須子さんの配信動画は、擦り切れるほど繰り返し見てきたんだけど、でも、やっぱりACIM原典から、これだけ離れていたということは、僕の心がそれだけ浮ついていたのだと思う。地に足がついていなかった…。

昨日の香咲弥須子さんのセミナーでは、僕は思わず質問してしまったのだけど、香咲弥須子さんからは、とても厳しくも愛のある回答をいただくことができました。

僕に回答するときの香咲弥須子さんの眼光はとても鋭く、僕のハートにぐさぐさと突き刺さりました(いい意味でね)。

あれぐらいはっきりと言ってもらわないと、僕はエゴを手放すという決意を持つことはできなかったと思います。

この話は長くなるので、何回かにわけて、みなさんにシェアしますね。

2024年1月18日木曜日

ACIM(奇跡のコース)のワークを一年間やりきった結果どうなったかについて書きます。

 今日は2024年の1月18日。

昨年(2023年)僕はついにACIM(奇跡のコース)の365日のワークを最後までやりきることができました。

その結果どうなったかについて、体験談を書きます。


■結論!ACIMのワークをやり切ってよかった

結論から言うと、ACIMの365のワークに一年間がっつり取り組んで、そしてやり切って本当によかったと思っています。

やりきったことによって、

何かが劇的に変わった!

とか

とてつもない奇跡が起きた!

なんてことは何もなかったです。

でも、静かに…そして確かに、僕の魂は安定してきたし、不安や心配に飲み込まれるようなことはなくなりました。

それは何故かというと、僕はワークに取り組む中で、常に聖霊とともにあろうと決めたからです。

そして、全ての存在は兄弟なんだ。という真実を受け入れたからです。

そうすると、基本的に僕には敵がいなくなりました。

まさに無敵です。

恐れではなく、愛を選ぶようになりました。

それが奇跡だと思っています。

その選択をできたことこそがまさに奇跡で、そしてACIMにはその奇跡を起こすたけの力がありました。

ACIMには難解な部分もありますが、わからないときはさらっと読み飛ばしてもいいのいで、やっぱり一人でも多くの人に読んでほしいし、ワークにも取り組んでほしいと思っています。

宇宙の真理が書かれた本なので、読んだ人には必ず何かしらの奇跡や変化をもたらしてくれると思います。


僕は今年もお正月からワークの2周目に取り組んでいます。

たぶん、僕はこれからもずっとワークを毎年、毎日取り組んでいくと思っています。

朝、ワークを行うことで、聖霊とつながって一日を過ごすことができます。

コスパもタイパも最高だと思います。

ぜひ、あなたにもはじめてほしいです。

ACIM生活を。



追記

365日のワークを毎日一つずつやっていければ一番いいとは思うけど、そう決めると途切れたときに気持ちがきれちゃうので、昨年僕ははじめて、途切れたら、その翌日に2日分のワークをまとめてやってもいい。と柔軟ルールで取り組みました。

その結果、最長で5日ぐらいワークができなかったときもあったけど、そういうときはまとめて5日分のワークに一日で取り組んだりすることで、結果、1年かけて、365のワークを完結させることができました。

ゆるい感じで取り組んでもいいと思います。

ギチギチでやって途中で終わるよりもよっぽどいいです。


それと、テキストのほうは、一年か断続的に読んできたけど、まだ最後まで読んでません…

今テキストはちょうど半分ぐらいまで読み合わった感じです。

テキストも引き続き読み進めて、今年中には完読したいと思っています。