2013の秋、うつ病(不安障害)を発症しました。メンターの教えと多くのスピリチュアルティーチャーの教えを学ぶことで、自我・エゴの存在に気づき〝いまここ〟に在ることでうつ病を克服しました。すべてを手放し〝あるがまま〟で生きることで人生が変わりました。僕の体験と学んだことをシェアしたいと思います。(・∀・)
2023年2月16日木曜日
うつ病・不安障害は完治しますッ!!
2023年1月16日月曜日
私には中立的な思いはありません。
私には中立的な思いはありません。
奇跡のコース(ACIM)第2巻学習者のためのワークブック:38ページ:レッスン16:私には中立的な思いはありません。より
奇跡のコースのワークで出てきたこの言葉。
今日はじめてその意味が理解できて、ものすごくハッとさせられたので、思わずブログに書いてます。
このワークの中では
「 」についてのこの思いは中立的な思いではありません。なぜなら、私には中立的な思いはないからです。
というワークを行うのですが、「 」の部分には、自分が不安に感じる思いを入れてワークを行います。
それで、僕も僕がずっと長年感じてきている不安と、今現在抱えてる不安を「 」の部分に入れて、自分の心の中で、このワークを何度か行ったのですが、その時に…
ハッ!!
としたんです。
大袈裟に言うと、雷に打たれたような衝撃というか…
本当にびっくりしました。
何にびっくりしたかというと、本当にこのワークの言葉どおり
私には中立的な思いはありません。
ということが本当に真実である。
ということにびっくりしたんです。
というか、私がこのワークで行った
「 」についてのこの思いは中立的な思いではありません。なぜなら、私には中立的な思いはないからです。
の「 」に入る全ての思いは、つまりはいろんな不安や心配事の全ては、愛でもなく、中立的な思いでもなく
全て恐怖や不安から生み出された思い
であるという事実に愕然としました。
多分、これは僕だけではなくて、ほとんどの人にも当てはまる驚愕の事実であると思います。
一日に僕たちは本当にいろんなことを考えて、いろんな思いが湧き上がってきますが、そのほとんどは、過去や未来のことばかりで、しかも考えている内容というのは、ハッピーなことよりも、心配毎とか、後悔とか、不安とか… そんなことを考えていることのほうが多いと思います。
で、そういうのって、本当に中立的な思いじゃなくて、全部自分の過去の体験を基に自分ででっちあげた恐れや不安なんですね。
心配事の9割は起こらない
なんて本もありますが(僕も持ってます)、本当にそうなんです。
僕の今日の感覚、あなたには伝わってますか?
なんていうのか、僕たちは物事に対して、常に中立でニュートラルであるべきだと思うけど、それってほぼ無理なんだということですね。
あらゆる、現実や事象、あるいは湧き上がってくる思いは中立ではなく
常に
愛
あるいは
恐れ
から来ているということです。
そして、その事実を認めた上で、何に基づいて生きるか?
日々湧き上がってくる思いはどこから来ているのか?
それを見つめることが大切なんだと思います。
奇跡のコース、本当に深いし、たくさんの気づきをくれる素晴らしい本です。
なんてことを書いている僕ですが、2013年に購入してはや10年、まだ一度も読み終わったことがありません。
ワークを一年かけてやりぬこうと、過去に3〜4回、ワークとテキストに取り組んだことはあるのですが、毎回途中で挫折してきました。
でも、今年は新年の1月1日から再び新たな気持ではじめたのですが、今回はものすごく内容が魂に入ってきます。
機が熟したのだと思います。
これからも大きな気付きがある度に、このブログでシェアしていきますね。
最後まで読んでくれてありがとう!
あゆむ 拝
2023年1月8日日曜日
真実の喜びは、すべて、「神の意思」を行うことから生まれます。
真実の喜びは、すべて、「神の意思」を行うことから生まれます。
なぜなら、「神の意思」を行わないことは「自己」の否定だからです。
奇跡のコース(ACIM)第1巻テキスト:17ページ:第1章:Ⅶ.奇跡衝動の歪みより
ものすごくシンプルで短い言葉だけど、この言葉にあらゆる問題を解決する全てが集約されてます。
真実の喜びは神の意思を行うことから生まれます。
現実世界は厳しい… というエゴの認識があるから、僕たちはすぐに不安にとらわれます。
人間関係のこと、お金のこと、健康のこと…などなど。
また、他人からの評価とか、出世欲とか、金銭欲とか、そういった欲望を根底に行動することがほとんどです。
でも、そこに真実の喜びはありません。
すべてエゴが根底になっているからです。
エゴを満たせば、瞬間的には喜びとか幸せという感覚を持つことができます。
でも、それは瞬間的なことで永続性はありません。
もう、それではダメなのです。
エゴは人間として肉体を持って生きている限り、完全になくすことはできません。
でも、エゴを認識し、コントロールすることは誰にでも可能です。
本当に幸せに生きたいのなら何か行動をするたびに
この行動は神の意思に基づいているか?
を自問して、イエスならば全力で取り組む。
それだけで、人生は全て良い方向に向います。
逆に、その行動や想いがエゴに基づいたものならば、その行動は行わない。
なぜなら…
「神の意思」を行わないことは「自己」の否定だからです。
ものすごくシンプルな世界。
ですね。
めっちゃ久しぶりの更新。
読んでいただきありがとうございます。
あなたの人生に幸多からんことを!
あゆむ 拝
2019年6月12日水曜日
ACIM 奇跡のコース…三度目の挑戦
このブログでも過去にこんな記事を書きましたが…
↓ ↓ ↓
2018年は再び「奇跡のコース」に取り組みます。
僕は、2016年の1月1日に、この一年で奇跡のコースに取り組むぞ!
と張り切って毎日のワークブックに取り組んだもののたぶん1ヶ月ぐらいで挫折しました。
そして、その二年後の2018年の正月あけにも、もう一度、奇跡のコースに取り組みました。
この時は、三ヶ月ぐらいは毎日のワークに取り組んだのですが、やっぱりどこかのタイミングであきらめて放置してしまいました。
そして、今年の4月17日から突然思い立って三度目の挑戦になりますが、奇跡のコースに取り組んでいます。
奇跡のコースってなんぞ?
と思われている方は、こちらのリンクをご覧ください。
↓ ↓ ↓
ACIM - ウィキペディア
『奇跡講座』とは?
僕的に「奇跡の講座」についてシンプルに説明すると…
現代のスピリチュアルの源流ともいえる、膨大に分厚いバイブル的な本です。
ヘレン・シャックマンという女性が自動書記に近い状態でメッセージを書き綴った本で、そのメッセージの主はキリストであると言われています。
現在生きている中でもっとも世界的に有名なスピリチュアル指導者のエックハルト・トールも、そもそもの目覚めのきっかけは「奇跡のコース」を読んだことにあります。
僕はこれまでに300冊以上はスピリチュアルな本を読んできましたが、かなり多くの著者が「奇跡のコース」について言及しているし、人生を変えてくれた本と絶賛してたりする、そんな本です。
そして、これもまた共通してみんな言っていることですが、この奇跡のコースってめちゃくちゃ分厚くて、単純にボリュームが半端ないんですが、それでいて
ものすごく難解です。
ははは…
これね、本当に激ムズです。
僕はかなりの本好きだし、スピリチュアル系の本は、ライトなものからヘビーなものまで、読了できなかった本はほぼありません。
でも、この奇跡のコースに関しては、絶対にこの一年で読むぞ〜!
と固く決意して読みはじめたのに、まだ前半部分のうちで挫折してしまいました。
たしかに難解な本ではあると思います。
でも、難解なんだけど、その中でもキラリと光る部分というか、
すげー〜〜〜〜!
って思う記述もある本で、難解な中にも、読みながら純粋な驚きと喜びがあったことも確かです。
でも、最後まで読めなかった…
それでしばらく本棚で眠っていたのですが、このたびまた奇跡のコースに取り組もう!って思ったのは、妻がきっかけでした。
えっと、僕ってホントに妻からの影響大な男です…(汗)
妻には瞑想友達が何人か全国にいて、時々集まってランチなんかをしているみたいなのですが、その友達の一人が、一年かけて奇跡のコースをやりきったと…
途中、本を投げ出したい気持に何度もなったけど、それでも必死で鞭打って、一年間続けたところ、その過程で、また読了した時に、まあ本当に奇跡が起こったと…
新しい世界が広がり、人生が変わったと…
そんな話を聞いたそうです。
つまり…奇跡のコースを一年で最後までやり終えたら、本当に奇跡が起きた…
って話です。
で、その話を妻に聞いて僕も、やっぱ奇跡のコースってスゴイんや!
って思って、これはもしかしたら、今が良きタイミングなのかも???
と思って、突発的に奇跡のコースに取り組むことにしたんです。
えっと、奇跡のコースを読むではなく、
取り組む
と書いてあるのは、理由があります。
奇跡のコースはテキストで1冊
そして、ワークブックで1冊になっていて、ワークブックには365のレッスンが乗っていて、それを一日、1ワークずつ取り組む形になっているからです。
つまり、読書というよりも、365日間、ワークに取り組む本なんです。
で、今日現在でワークはレッスン36まで進んでいて(はい、毎日のつもりが時々サボった日がありました…)、テキストのほうは172ページまで読んだところです。
そして、不思議なのですが、3回目の挑戦である今回は、以前に2回に比べると、ものすごく内容が理解できるようになりました。
もちろん難解な部分はあるのですが、ワークはまだしも、テキストのほうが以前は全くちんぷんかんぷんな感じだったのが、今回はテキストのほうも、けっこう内容がグイグイ入っていくる感じです。
なので、今回は一年とちょっとで、たぶん最後までワークに取り組んで、テキストも読了できると思います。
たぶん、僕にとっては、人生において今のタイミングで読むようになっていたんだな…
というふうに感じています。
この本、なかなかすごくて、テキストを読み、ワークに取り組むことで、僕は人生のとらえかたがまた良い方に変わってきました。
分離感がよりなくなってきたし、人生に安心感をもつことができるようになってきました。
きっと、この記事を読んでくれているあなたにも、いずれ読む時がくると思います。
なお、本は分厚いだけに、お値段もけっこうするのですが、1家に1冊あってもいい、いや、あったほうがよい本だと思います。
この世界の真実を知りたい、人生の目的を知りたい…
そんな疑問を盛っている人にこと読んでほしい本です。
7日参りを終えて
という妻の提案により、地元の産土神社である村山神社に7日間のお参りを続けてきました。
何でも三日坊主の僕ですが、このたびは初志貫徹で7日間連続でお参りすることができました。
別に何か特別の願掛けとかご祈願が目的だったわけではなく、妻に提案されて、そうだなやってみよう! と素直に思えたから始めたことなのですが、何ごとも続かない自分をよくわかっているので、自分でも驚きというか、よくやったな… という達成感みたいなものがあります。
7日間連続で神社にお参りしたら…
こんなご利益がありました!
なんて奇跡体験のようなことが書けたら面白い記事になるんだろうけど、そのような奇跡のようなご利益は…
ありませんでした!
でもまあ、なにごともなく普通に元気に生きられていること… これがいってみれば奇跡みたいなものだと常から思っているので、今日も平常運転でのほほんと生活できていることが幸せだし、ありがたいです。
あと、思っていることは…
神社とかパワースポットに行ったりするのも、もちろんいいんだけど、実は僕たち一人ひとりが神の宮であり、神柱です。
神さまは神社とか山の上とか、遠くに求めるんじゃなくて、実は一番身近な自分の中にあります。
その自分の中の神にしっかりつながること。
いつでも神意識で生きること(これが難しい!)。
それが一番大切なことなんだと思います。
神社に行って、その時は感動したり、気分が高揚することはありますが、そういう気分ってたいてい3日ももちません。
すぐに日常に引き戻されて、ハードモードなストレスフルな現実の毎日に飲み込まれてしまいます。
だから、地味だけど…
自分の中の神とつながっていること。
ずっとは無理でも、一日にできるだけ何度も神とつながること。
日中忙しくて、エゴにまみれて生きてしまうなら、朝と晩には瞑想して、自分の中の神とつながること。
そっちのほうが大切だと思います。
でも、単純に神社って神聖だし、気持が洗われるので、参拝は素晴らしいものだと思います。
村山神社には、これからもきっと定期的にお参りに行くと思います。
PS
この記事、7日参りを終えた日に書いたのですが、下書きに入れていたまま、ずっと公開できてませんでした…
(この記事を公開したのは、本日2019年6月12日です…)
2019年3月4日月曜日
一夜明けて…
でも、そんな時こそ…
と、一人静かに瞑想をすることで窮地を脱出することができました。
あれだけざわついていた心なのに、その後は、自分でもびっくりするぐらいに、心は静まっていました。
いつも以上に心は静まっていたぐらいです。
そして、夜も12時を過ぎてましたが、時間を決めずに瞑想を再びしました。
いつもはタイマーを30分にセットして瞑想をはじめるのですが、昨夜はそれもせずに、ただただ瞑想に流れを任せようと…
時間にして1時間以上は瞑想していたと思います。
かなり強烈な光に包まれました。
僕は瞑想に、奇跡とか不思議体験を求めているわけではありません。
確かに瞑想をしていると、時折、光に包まれたり、身体感覚が完全に消えたり、何らかのビジョンを見せられることがあります。
いわゆる不思議体験です。
それが起きた時は、確かにものすごく気持ちがよかったり、救われたような気持ちになったりもします。
何より、深い瞑想状態にならないと、そういう現象は起きないので、深い瞑想が出来た…
それだけで、ものすごく心地いいし、終わったあとはものすごくスッキリしているのです。
でも、瞑想に奇跡とか不思議体験を求めるのは違うと僕は思っています。
たしかにそういうことが起きることもあるんだけど、それを求めることは違うと思っているし、瞑想教師の方や、あるいは覚者の本等で、瞑想に奇跡を求めるのは違う…
という話も聞いたことがあります。
なので、ただ心静かに瞑想する。
瞑想が向こうからやってくることを信じて、日々瞑想しているわけですが、昨日の深夜の瞑想は、自分の思いを超えてものすごく深い瞑想状態に入ってしまいました。
まさに、瞑想が向こうからやってきた状態です。
瞑想をはじめてたぶん30分を過ぎたぐらいから、ずっと目を閉じているのに、ものすごい光が次々と眼前にあらわれてきます。
とても眩してくて、真っ白な光がずっと瞬いているのですが、決して目が痛い眩しさではなく、目には優しいけど、強烈な光量でした。
瞑想を終えたあとにも、余韻が残っていて、いつも以上にぐっすりと熟睡できることができました。
そして朝もスッキリと6時前には起きることができました。
産土神社への7日参りも今日で6日目です。
今朝ははじめて、妻とではなく一人で村山神社に参拝しました。
本当は妻と行きたかったんだけど、昨日参拝していた時に
「一緒だとペースが乱れるから明日は別々でお参りしよう」
と言われたからです…
(^_^;)
すこし寂しくもありましたが、小雨の中、一人で参拝してみると、なるほど確かに心静かにお参りをさせていただくことができました。
いつもは、本殿では「天津祝詞」を奏上して、その他の6つのお社では、御神号のみ奉唱していたのですが、今日は一人だったのでそれぞれのお社で天津祝詞を奏上させていただくことができました。
とてもすがすがしい参拝でした。
昨日の夜はかなり心乱れる出来事があったのですが、今の心はとても落ち着いていて、大きな安心感があります。
瞑想と参拝
やっぱり大きな力があると思います。
何かを求めてやっているわけではありませんが、それ以上の大きな力をいただいている実感があります。
2019年3月3日日曜日
強烈なストーリーに揺さぶられる…
エゴのストーリーに飲み込まれそうになって苦しかった。
車で家を脱出して、落ち着いた場所に車を停めて30分間の瞑想を行った。
瞑想の力はやっぱりスゴイ。
乱れていた心が整い、これからどのように善処すればいいのかがわかった。
おまけに、ここ数日ずっとたまっていたモヤモヤも晴れて、ものすごく視界がクリアーになった。
こういう体験を繰り返すことが大切だと思う。
日常にはいろんな罠が潜んでいて、全てが順風満帆とはいかない。
時にはとんでもない事件が起きたりして、強烈なストーリーに巻き込まれることがある。
そうやってストーリーに飲み込まれてしまうと、すぐにエゴの入れ物になってしまい、ストーリーと一体化して苦しくて辛くて… 先が見えなくて、暗い気持ちになってしまう。
でも、ストーリーはストーリーにすぎない。
たしかに現象としては目の前で何らかの事件やショッキングな出来事が起こっているんだけど、その現象に意味をつけたり、絶望したりしているのはエゴのしわざだ。
神である僕たちの本体はいつでも大丈夫なのに、何かに巻き込まれるとすぐに一体化してしまう。
瞑想したり、神社にお参りしたりして、最近心が整ってきた!
なんてことをブログで書いてきたけど、なんのことはない… すぐにストーリーに巻き込まれて僕のエゴはざわざわと騒いでしまいました。
でも、やっぱり瞑想することで、安心を得ることができました。
瞑想の力です。
明日からどんな展開が待っているのか、しっかり味わい愛でてみようと思います。



